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守護職事件簿 3 拝命〜入京

3-1:文久の幕政改革と京都守護職拝命

<要約>
文久2年、朝廷/薩摩藩の圧力で政権についた将軍後見職・一橋慶喜と政事総裁職松平春嶽の下、幕府はさまざまな改革を行った(文久2年の幕政改革)。その一環として、文久2年閏8月1日、将軍家茂は会津候松平容保を京都守護職に任命した。容保を支えることになる京都所司代には長岡藩主牧野忠恭、京都町奉行に幕府寄合・永井尚志を任じた。『徳川慶喜公伝』によれば、守護職は所司代の上にあって(1)御所の守衛にあたり、(2)京都を始めとする近畿の庶政を担う職であり、京都における幕府の失権の回復と尊王攘夷激派の勢力をそぐことを目的としていた。

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(1)幕府の守護職設置の経緯 (2)会津藩の守護職拝命の経緯 (3)朝廷の反応

(1)幕府の京都守護職設置経緯

政事総裁職であった松平春嶽の回想によれば、容保の守護職任命の事情は

「諸藩が京都へ群集し、なかんづく薩長土人多く出で、公卿諸藩の力を借り、暴論盛んにして、とても所司代京都町奉行等の指揮を受けず、所司代も極々困却を極め候ゆえ、幕府の威厳は消滅の勢いとあいなり候ゆえ、幕府においてもいたしかたなく、京都守護職をおき、所司代の頭にすえ、会津は大身にもこれあり、兵力もあり、公家及び諸藩を圧倒するは、会津にあらざれば、とても持堪えがたしとの廟議なり」(「逸事史補」)

である。

1) 京都における幕府(所司代)の失権

幕府は従来、所司代を京都に置いて、近畿の庶政ならび朝廷の守護(監視)を行ってきた。所司代には代々譜代大名が就任し、幕府の威勢を京都において示す存在だった。安政の大獄時も、所司代が動いて浪人・公家の処罰にあたった。

しかし、所司代の威権は文久2年4月の島津久光の率兵上洛時以降、大きく失墜した。所司代酒井忠義は、久光の上洛に合わせて浪士が所司代襲撃を企てたこと(寺田屋事件参照)に狼狽して二条城に引き上げ、久光が兵を率いて御所内に入ることも阻止しえなかった。久光が寺田屋事件での浪士鎮圧の功により、滞京(京都守護)の勅命を得たのに比べ、京都市中では幕府方の所司代・町奉行の威光は落ち、与力・同心は萎縮し、尊攘派浪士の天誅に手をこまねくようになった。

幕府は幕権回復のため、酒井を転任させ、大阪城代の本庄宗秀を所司代に任じたが、宗秀も安政の大獄の弾圧側にいたため、尊攘派はこれを実力で阻もうとした。朝廷も、東下中の勅使大原重徳、及び島津久光に、所司代更迭を周旋させた(開国開城-勅使11か条の要請)。

2) 会津藩のためのポスト・京都守護職の新設

幕府は対処策として、最初、新たな所司代として、門閥と兵力を備えた会津藩を任じようとしたが、所司代は譜代(=幕府の家臣)の職であり、親藩である会津藩の家格にあわないという理由で辞退された。そこで慶喜・慶永は老中と相談し、7月27日、所司代の上により強力な守護職を新設することにした。

関連:
◆7月21日-新所司代本庄宗秀に代え、容保に上京をとの幕議 7月26日−会津藩と越前藩の会盟 7月27日−幕府、京都守護職設置を決定


(2)会津藩、守護職拝命の経緯

1) 守護職辞退と松平春嶽の説得

文久2年7月28日、春嶽が幕府の内命を伝えた()。容保は、不肖の身で大任は果たせないこと、また京都は藩地から遠く、習俗も知らないとして、これを固辞した。将軍の命令と藩祖の遺訓(会津松平家には藩祖保科正之の残した家訓として、「将軍には忠義をつくし、他国の例をもって判断してはならない。もし将軍家に対して二心があれば(藩祖)の子孫ではなく、家臣は従ってはならない」というものがある:参照「会津藩基礎知識」「家訓【かきん】」)を重んじるばかりに、失策を犯し、かえって徳川宗家、ひいては国家に累が及ぶのを恐れたのである。(★)

しかし、幕府は承諾せず、春嶽は重ねて説得した。春嶽の説得は<京都では薩摩藩がいつ暴発するかわからず、島津久光の叙任の動きもあり、不穏である。京都守護が手薄では対処もできず、守護職をお受けに成らなければ公武合体に至りかねる。いったん請ければ、いかような尽力もするので、とりあえず請けるように>というものから、<保科正之公(会津藩祖で二代将軍秀忠の三男)が現在いれば、必ず請けるだろう>というものまでさまざまであった(★)

2) 守護職就任の三条件

会津藩家老横山常徳(主税)は、守護職を請ければどのような支援もすると約束した春嶽に対して、守護職拝命の諸条件を提示した(★)。その中には(1)浪士対策、(2)将軍上洛、(3)所司代人事が含まれていた(★)。このうち、幕府は、所司代人事については、速やかに、会津藩の条件通り、別途任命することとし(守護職が所司代を兼任しないということ)、長岡藩主牧野忠恭を登用することにした(★)

3) 国家老の諫止と容保の決断

容保は度重なる説得に、ついに守護職奉命と心を固め、急使を国許に派遣した。(幕府が、上記守護職就任の条件を検討する姿勢を見せたことも奉命を決めた理由の一つではないか)。国家老の西郷頼母(さいごう・たのも)・田中土佐は、8月19日、急遽上府して江戸藩邸に臨んだ(★)。『京都守護職始末』によれば、西郷は情勢は幕府にとって非なので、守護職奉命は「薪を背負って火を救おうとするようなもの」と諫止した。しかし、容保の決意にうたれ、「君臣もろともに京師の地を死場所としよう」ということになったという(★)。(しかし、実際は、諸々の事情から、京都守護職辞任運動・帰国運動を広げることになる・・・)。8月24日、会津藩は内命受諾を伝達し、閏8月1日、幕府から守護職に任命された。

関連:
「今日」◆7月28日−松平春嶽、会津藩に京都守護職の内命を伝える 7月29日−会津藩、内命を固辞 8月2日−会津藩野村左兵衛、越前藩士中根雪江らを招いて懇談 8月6日−中根雪江、会藩家老横山主税宅訪問。守護職就任を説く。 8月8日−春嶽、直々に容保の京都守護職就任を説得 8月9日-会津藩家老横山主税、守護職就任の条件を出す 8月11日−会津藩未決の条件は(1)諸浪士、(2)将軍上洛、(3)所司代人事 8月12日−会津の条件を容れ、所司代に牧野忠恭登用との幕議 8月15日−会津藩、所司代は別途任命を要請 8月19日−国許から家老田中土佐・西郷頼母が上府 8月20日−会津藩、守護職拝命を決める 8月24日−会津藩、内命御請を伝達

「徒然」「守護職拝命。会津以外の資料によれば

(3)朝廷の反応

朝廷では京都守護職が新設されたことを聞き、武力で京都を制圧するつもりでhないかと心配して幕府に守護職設置の事由を問い合わせた。これに対し、幕府は、<朝廷の尊奉や京都の警衛を十分にして天皇の心を安んじるために、会津候に守護職を命じ、警衛の人数が整うよう、万事取り計らうために派遣するものである>と説明した。

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<参考>
『再夢紀事・丁卯日記』・『続再夢紀事』・『七年史』・『会津松平家譜』・
『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『幕末政治と倒幕運動』・『開国と幕末政治』



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