| 守護職事件簿 2 拝命〜入京 |
| <要約> 守護職を奉命した会津藩は、守護職の目的は公武一和であり、天皇の攘夷の意思を尊重することが重要だと考えた。そこで幕府に三港以外の通商拒否を中心ととする建白書を提出した。最終決定は幕府に委ねるとしたもののこの建白書は幕府には容れられなかった。しかし、天皇や尊攘派には歓迎された。(京都守護職の方針)。さらに、守護職の任務達成には会津藩への委任が必要であるとの条件を出した。しかし、将軍上洛が決まり、会津藩は将軍による直接守護を主張していたので議論を煮詰めず、また実際の布令は翌年7月と遅れた。このため京都守護に種々の障害が生じた。(守護職の職権) (方針確立の結果) |
(1)京都守護職の方針
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(2)守護職の職権確立1) 京都守護の全権委任を幕府に要請会津藩は、守護職の大任を受けるにあたって、「格別に御威権の御沙汰これなく候ては必至とお勤め行き届かせられず候ことにこれなき候」と考え、幕府に対して以下のような職権に関する申し入れを行っていた。
(『会津藩庁記録』:全文はこちら) 2) 職権確立の遅れ実際のところは、容保上洛までにそのような沙汰はおりず、従来京都守護にあたっていた所司代と守護職の不協和を招くことともなった。職権に関する沙汰が降りたのは、容保が上洛して7ヶ月以上たった、文久3年7月だった(守護職資料集:沙汰書の口語訳)。この遅れは、容保の上洛(文久2年12月)に際して委任の条件があったものの、翌3年3月に「将軍上洛し親しく守護したまえる」というので、将軍上洛まで議論をのばしたこと、いったん将軍が上洛すれば、会津藩は将軍の滞京による直接守護を勧めていたので、自身の京都守護に関する職掌について議論する必要もなかったからだと思われる。その証拠に、会津藩は、将軍帰府後の6月になってはじめて、職掌に関する幕命を得るために家老の田中土佐を江戸に送っている(「今日の幕末京都」会津藩、幕府に非常時の全権等を要請)。7月の沙汰はこれに応じたものだろう。 (守護職公用方の広沢安任の日記「鞅承録」) |
(3) 方針確立の結果家近良樹氏(『幕末政治と倒幕運動』)によると、会津藩の暫定的方針確立は、二つの結果をもたらした。
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<参考>
『会津藩庁記録』・『七年史』・『会津松平家譜』・『京都守護職始末
・『続再夢紀事』・『幕末政治と倒幕運動』