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守護職事件簿 2 拝命〜入京

2-2:京都守護職の方針確立と建白書提出

<要約>
守護職を奉命した会津藩は、守護職の目的は公武一和であり、天皇の攘夷の意思を尊重することが重要だと考えた。そこで幕府に三港以外の通商拒否を中心ととする建白書を提出した。最終決定は幕府に委ねるとしたもののこの建白書は幕府には容れられなかった。しかし、天皇や尊攘派には歓迎された。(京都守護職の方針)。さらに、守護職の任務達成には会津藩への委任が必要であるとの条件を出した。しかし、将軍上洛が決まり、会津藩は将軍による直接守護を主張していたので議論を煮詰めず、また実際の布令は翌年7月と遅れた。このため京都守護に種々の障害が生じた。(守護職の職権) (方針確立の結果)

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(1)京都守護職の方針

1) 公武一和(天皇の考え尊重)の基本方針

幕府の内命もあり、会津藩主松平容保は、上洛前に、家老田中土佐を始めとする家臣団を京都に派遣し、在任準備とともに、情勢の視察を行わせた。その報告を分析した結果、会津藩は京都守護が任務であることに違いないが、その目的は公武一和であり、そのためには天皇の攘夷の意思を尊奉することが専要だとした。しかし、攘夷は実行が難しいので、とりあえず開港した三港以外の通商は拒否し、時機をまって天皇をゆっくり説得するしかないと考えたという。

2) 攘夷に関する建白書

文久2年9月17日頃、松平容保は幕府に三港外閉鎖の建白書を提出した。
  1. 長崎・箱館・下田の三港はこれまでどおり開港とする。(開港の利点は認識)
  2. しかし、天皇の攘夷の意思を尊重し、勅許を得ずに結んだ通商条約は改正し、相手側が条約に違反し、無礼・不敬を示した際には打払う。御殿山の外国公使館建設、兵庫・大坂の開港、外国人の江戸居住・遊歩などは禁止する。(会津藩の主張は、条約改正であり、条約完全破棄による鎖国攘夷を是とはしていない)
  3. ただし、鎖国か開国かの国是は、将軍が翌年春上洛するまでに諸藩の考えを聴取し、天皇の意思をきいた上で、最終的に決定をする(重要な決定は幕府に委任し、自らがイニシアティブをとらないというのは、その後も会津の基本姿勢のような^^;)
また、この建白内容が許容されなければ、「自然、守護の任も立ちかね」、「容易ならざるこの度の大任相勤む見詰め更にござなく候」だと、強い決意(辞任の示唆)を示している。

開港の利点は認識しながらも、天皇の攘夷の意思を尊奉することが公武一和には肝要だとの見方からの、「折衷案」(『幕末政治と倒幕運動』)である。ただし、この方針は暫定的なものであり、建白書では、鎖国か開国かの国是の最終決定については、「重大事なので、将軍が翌年春上洛するまでに諸藩の考えを聴取し、天皇の意思をきいた上で、至当のところへ決定していただきたい」と幕府に委ねている。

【詳しく】「今日」◆文久2年9月16日:慶喜の上京&開国上奏方針決定/攘夷奉勅(1)松平春嶽、藩内で必戦・破約攘夷(⇒自主開国)を議論させる/ 9月17日:松平容保、幕府に三港外閉鎖等の破約攘夷の建白」  9月20日:町奉行小栗忠順、幕権を立てることを主張。容保、奉勅を主張9月30日:会津藩小室金吾、越前藩に、老中から守護職は国是決定に関わる必要がないと言われたことを伝える 10月1日:幕議、慶喜の上洛&開国上奏を決定/容保に上京出発の暇(情報漏えいを心配された会津藩)

3) 建白書への天皇の好意的反応

会津候の三港の他閉鎖の建白書は朝廷の受けはよかった。尊攘派公卿・三条実美が会津藩士から提出された建白書を孝明天皇にみせたところ、天皇は「これまでの建白書には、過激にすぎるか因循にすぎるかで適切なものがなかった。この建白書は着実で中正なので実際に実行に移すべきだ」と言って手元の箱に収めたという。実美も同感だと建白書に好感を示した。『京都守護職始末』では、これを容保が天皇の信任を得た始まりだとしている。

関連
「私的幕末資料」建白書全文(仮書き下しbyヒロ)
■「開国開城」文久2年5月〜:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革 10〜12月:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題
■幕末日誌文久2年

(2)守護職の職権確立

1) 京都守護の全権委任を幕府に要請

会津藩は、守護職の大任を受けるにあたって、「格別に御威権の御沙汰これなく候ては必至とお勤め行き届かせられず候ことにこれなき候」と考え、幕府に対して以下のような職権に関する申し入れを行っていた。
  1. 「かねて御警衛の方々(注:所司代・町奉行など)はもちろん、中国西国の諸大名、万事ある節は、万事お家の節度に従われ候よう、かねて御台命(注:将軍の命令)あらせられ候ようなされたく」
  2. 「らん外の権、お任せ下さり、諸家の野心暴発つかまつり候はば、速やかに御征伐人数取り進ませ申すべく、もっとも九家(注:京都守衛の九大名)の面々へもかねて御沙汰これありたく」
そうしたところ、守護職拝任直後には、永井尚志から、そのとおりになるはずだとの「御挨拶」を受けている。

(『会津藩庁記録』:全文はこちら)

2) 職権確立の遅れ

実際のところは、容保上洛までにそのような沙汰はおりず、従来京都守護にあたっていた所司代と守護職の不協和を招くことともなった。職権に関する沙汰が降りたのは、容保が上洛して7ヶ月以上たった、文久3年7月だった(守護職資料集:沙汰書の口語訳)。

この遅れは、容保の上洛(文久2年12月)に際して委任の条件があったものの、翌3年3月に「将軍上洛し親しく守護したまえる」というので、将軍上洛まで議論をのばしたこと、いったん将軍が上洛すれば、会津藩は将軍の滞京による直接守護を勧めていたので、自身の京都守護に関する職掌について議論する必要もなかったからだと思われる。その証拠に、会津藩は、将軍帰府後の6月になってはじめて、職掌に関する幕命を得るために家老の田中土佐を江戸に送っている(「今日の幕末京都」会津藩、幕府に非常時の全権等を要請)。7月の沙汰はこれに応じたものだろう。

(守護職公用方の広沢安任の日記「鞅承録」)

(3) 方針確立の結果

家近良樹氏(『幕末政治と倒幕運動』)によると、会津藩の暫定的方針確立は、二つの結果をもたらした。
  1. 会津藩に対する尊攘派の一定程度の好意の招来(家近氏は、三条実実の会津藩に対する勅使待遇改善依頼もこの延長にあるとしている)
  2. 会津藩内部における京都守護の方策をめぐる突き詰めた議論の放棄:このため、(a)将軍不在時は上洛を求め、将軍在京のときは滞京を求める以外の基本方針をもちえなかった、(b)当初の京都守護方針が現状追認策となった(言路洞開を指す)、(c)旧京都守護体制の頂点であった所司代との不協和が生じ、任務遂行に支障が起った。

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<参考>
『会津藩庁記録』・『七年史』・『会津松平家譜』・『京都守護職始末
・『続再夢紀事』・『幕末政治と倒幕運動』


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