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守護職事件簿2 拝命〜入京

 2-4 :薩摩藩・島津久光の守護職任命運動
(文久2/1862年11月)

<要約>
会津候松平容保が上洛の準備を進めていた11月、朝廷は、薩摩藩士の工作を受けて、久光を京都守護職にするようにとの命を幕府に下した。この朝命には、公卿の中にも反対があり、長州・土佐藩も激しく反対した。幕府内でも後見職一橋慶喜や守護職の会津候松平容保らに異論があったが、公武合体派連合策(幕府と公武合体派大名・公家との連合)で京都における尊攘派優勢を覆そうと考えていた総裁職松平春嶽を始め、幕府の大勢は朝命を受け入れるつもりであった。しかし、方々に反対があるため、ただちに任命することはせず、翌春の将軍上洛にまで発表を見合わせることとなった

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(1)薩摩藩の守護職任命運動

文久2年11月12日、朝廷は幕府に対し、島津久光を守護職に任じるようにとの命令を伝えた

「松平肥後守儀、京都守護職申付けられ、御警衛筋も行届き、御満足思召され候、しかるところ、一藩奉職にては、人心居合い(おりあい)もいかがこれあるべきや、御懸念思召され候、此れにより、島津三郎儀、今般公武御一和の基本を周旋いたし、皇国の為に大いに忠誠候者にて、此末、公武の御為、別て然るべく思召され候、かつ同人儀、家督にこれ無く候えば、京都守護も専一に相調え候儀と思召され候につき、右、別段の叡慮をもって、断然守護職仰せ出されたく、大樹家においても猶また叡慮貫徹候よう、肥後守申し断じ相勤め候よう申し渡されたく御沙汰候こと、
別紙の通り仰せ出され候については、島津三郎儀、早々上京仰せ下され候間、父子一時發途に相成り候ては、難渋にもこれあるべき候間、修理太夫出府の儀、暫く猶予これあり候よう、遊ばされたく、思し召し候こと」

会津藩士は島津久光の守護職任命には反対だった。無位無官の島津久光と容保の職を同じにするべきではないというのである。これを聞いた容保は「いやしくも京都と関東とに利益があるなら、島津久光に異存はない。官位をもたない者でもよいだろう。わたしはただ、共に協力して公武一和を計るのみである」と言ったそうであある(『七年史』)

同日、朝廷から会津藩に対して、親藩一藩では外様との折り合いもつきにくいので薩摩藩島津久光と協力して警衛にあたるようにとの沙汰が下りた。

「公武御間柄の義につき、段々尽力、御満足に思召され候、殊に当御守衛柄勤め候こと、旁ら御安心あらせられ候ところ、方今、人心とかく異議相生じやすく、親藩斗一家奉職にては、外藩向心(人心?)居り合い難き候につき、このたび、島津三郎義、公武御一和の基本を周旋致し、皇国のため忠誠の者にて、此末公武の御為しかるべく思召され、抜擢守護仰せ付けられ候については、万事申し合わせ、警衛これあるべき候こと」

(2)幕府、薩摩藩の守護職内定


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