守護職事件簿トップ 京都守護職トップ HPトップ

守護職事件簿 3 文久3年

3-1:松平容保、守護職として入京・公用方設置

<要約>
文久2年12月、翌春の将軍上洛に先立ち、会津候松平容保は京都守護職として入京した。容保に関する朝廷のイメージは、三港外閉鎖の攘夷建白書に加えて、勅使待遇改善の周旋でさらに好意的となっていた。ことに孝明天皇は喜び、翌3年正月、容保の上洛後の初参内のおりに、勅使待遇の礼をあらため、君臣の名分を明らかにした功をもって、御衣を下賜するという武人に対しては異例の厚遇をあたえた。

(「勅使待遇改善に尽力」)戻る 次へ

(1)容保の入京 (2)容保の初参内と御衣下賜 (3)公用方設置

(1)京都守護職松平容保、入京

文久2年12月24日、攘夷奉勅の将軍上洛に先立ち、会津藩主松平容保が京都守護職として入京した。容保は関白近衛忠熙を訪ねてに天機(注:天皇の機嫌)を伺ってから宿舎である黒谷の金戒光明寺に入った。この日、一里にも及ぶ守護職の行列を見ようと蹴上から黒谷の道の両脇は鈴なりの人であった。

『京都守護職始末』によると、これまで京都の人は、京都所司代や京都守衛にあたっていた彦根藩士が浪士を鎮圧できないので、腰抜けと嘲笑しており、幕府の役人とはそのようなものだと思っていたのが、容保の行列が立派であり、かつ関白のもとに立ち寄るという尊王の姿勢をみせたことなどに、心を安んじたとのことである。(★)


(2)初参内と異例の御衣下賜

明けて文久3年1月2日(1863年2月19日)、容保は新年を奉賀するために上洛後、初めて参内した。小御所で孝明天皇に拝謁した容保は、天盃(てんぱい:天皇から贈る酒盃)に加えて、戦袍か直垂に作り直すように緋の御衣(ぎょい:天皇のお召し物)を賜るという武人として異例の待遇をえた。(ちなみに、この後、長州藩主も御衣を下賜されている)

武人に御衣が下賜されたのは、徳川幕府になってからは空前のことであったそうだ。容保が朝廷からこれほど厚遇されたわけは、前年の別勅使三条実美ら東下の際に、幕府の勅使待遇の礼を改めることに尽力した功によるものだった。このころ、会津藩は尊攘激派公卿からも依頼される存在だったのである。また、孝明天皇の容保に対する信頼はこの後も揺らがなかった。

後に勤王の志士と呼ばれる人々を弾圧する立場に立ち、明治維新では「朝敵」にされてしまった容保だが、上洛当初は朝廷での評判もよかった。(上洛当初は「言路洞開」を唱え、浪士への対応もソフトであった)。


守護職事件簿トップ 京都守護職トップ HPトップ