- 会津には藩祖保科正之の家訓(かきん)として、「将軍には忠義をつくし、他国の例をもって判断してはならない。もし将軍家に対して二心があれば(藩祖)の子孫ではなく、家臣は従ってはならない」というのがあった。
- しかし、元会津藩士の回想録『京都守護職始末』によれば、容保は、当初、自らは浅才であり任を果たせないと、将軍による守護職任命を断っていた。将軍の命令と藩祖の遺訓を重んじるばかりに、失策を犯し、かえって徳川宗家に累が及ぶのを恐れたのだという。
- さらに、『京都守護職始末』によれば、守護職を奉命後、国家老の西郷・横山が急遽上洛し、情勢は幕府にとって非なので、守護職奉命は「薪を背負って火を救おうとするようなもの」と諫止した。しかし、容保の決意にうたれ、「君臣もろともに京師の地を死場所としよう」ということになったという。
- とはいえ、実際は、途中でいろいろあって、守護職辞任を再三申し出たり、登城ストライキをしたり、容保の帰国を要請し続けたりしている・・・。やはり、お家大事に心は揺れたようだ。
|