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更新日:2000/9/22

いろはに京都守護職

京都守護職こぼれ話



君臣もろともに京師の地を死場所に!?  薩摩藩とダブル守護職



君臣もろともに京師の地を死場所に!?

  • 会津には藩祖保科正之の家訓(かきん)として、「将軍には忠義をつくし、他国の例をもって判断してはならない。もし将軍家に対して二心があれば(藩祖)の子孫ではなく、家臣は従ってはならない」というのがあった。
  • しかし、元会津藩士の回想録『京都守護職始末』によれば、容保は、当初、自らは浅才であり任を果たせないと、将軍による守護職任命を断っていた。将軍の命令と藩祖の遺訓を重んじるばかりに、失策を犯し、かえって徳川宗家に累が及ぶのを恐れたのだという。
  • さらに、『京都守護職始末』によれば、守護職を奉命後、国家老の西郷・横山が急遽上洛し、情勢は幕府にとって非なので、守護職奉命は「薪を背負って火を救おうとするようなものと諫止した。しかし、容保の決意にうたれ、君臣もろともに京師の地を死場所としようということになったという。
  • とはいえ、実際は、途中でいろいろあって、守護職辞任を再三申し出たり、登城ストライキをしたり、容保の帰国を要請し続けたりしている・・・。やはり、お家大事に心は揺れたようだ。

薩摩藩とダブル守護職 

  • 実は会津侯松平容保との2本立てで薩摩藩主の父、島津久光を京都守護職にという話もあった。守護職を親藩からだけでは不公平というので、外様からもという論理。実現しなかったが、もし、薩摩が幕府側の守護職になっていたら、幕末政治はかなり違ったものになっていたかも・・・。



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