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京都守護職の年表(4)

元治元(1864)年
<容保30歳>


1月 2日-慶喜ら有力諸侯、長州処分を議定。長州服罪なきときは紀州候を主将・会津候を副将とする追討軍派遣を検討。(詳しく)
4日-容保、参内。新年の挨拶。(家)
7日- 容保、劇症の風邪をひき病床に臥す (詳しく)
8日- 将軍家茂、大坂上陸 (詳しく)
9日-有力諸侯、容保の征長副将、春嶽の守護職、久光の幕政参画等を議定/慶喜の守衛総督就任が議論される (詳しく)
10日-老中、会津藩士を召し出し、警衛の労を賞する台命を伝える。(家)
11日- 慶喜ら、征長戦参加大名を議定。(詳しく)
15日- 将軍家茂二度目の入京、二条城へ (詳しく)。容保、病で登城できず。家臣小室を登城させる。(家)
18日- 家茂、容保に病気見舞の使者を派遣 (詳しく)
20日-容保、登城。(家)
21日-将軍家茂参内。公武一和の勅愉(「汝は朕が赤子、朕之を愛する事子のごとし。汝朕を親しむこと父の如くせよ」)が下る (詳しく)。容保、病を押して随従。(家)
25日−容保、関白・両奏邸訪問し、次に登城。将軍家茂、容保の勉励を賞して金一万両他下賜。(詳しく)
27日-容保、将軍参内に随従。(家)
2月 1日−会津藩・新選組批判の高札 (詳しく)
2日−近藤を召しだす (詳しく)
5日-二条家と両敬の約(家)
8日−孝明天皇、会津候容保に極秘の宸翰 (詳しく)
10日−将軍、容保を召し出し、上京来の鎮撫を賞して五万石加増の沙汰 (詳しく)容保は病で神保利高が登城。
11日−幕府、長州訊問条目・征長出陣部署決定/容保、守護職を更迭され陸軍総裁職と征長軍副将任命 (詳しく)/容保、加増を断るが、老中は許さず/将軍、容保に病気見舞いの使者を送る。
12日−朝廷、容保に参議推任の宣下 (詳しく)。容保辞す。
13日−容保・軍事総裁職に転出 (詳しく)
14日−将軍家茂、諸侯と幕議相談することを朝廷に約束/慶喜、開国から鎖港攘夷に方向転換(参与会議の崩壊へ) (詳しく)
15日−松平春嶽、守護職就任(慶喜の後押し)、朝議で横浜鎖港をめぐって参与の意見が対立。(詳しく)/容保、病をおして登城。老中水野忠精、容保に毎日登城して御用部屋に出仕せよとの台命を伝える。(家)
16日−孝明天皇、容保に再び宸翰(守護職復帰要請)。慶喜、久光・春嶽・宗城を連れて中川宮を訪問、「薩摩の奸計、三人は天下の大愚物」と暴言。(参与会議は急速に解体へ) (詳しく)
17日−容保、登城。幕府、容保に軍事総裁職委任条件を示す (詳しく)
18日−江戸の老中、連署して容保の軍事総裁職転任に反対 (詳しく)/容保、在国の重臣に戒諭の書を送る。(家)
19日-容保、守護職の職になくとも滞京中のときどきの参内・天皇との面会の許可を請う。(家)
20日−元治と改元。朝廷、勅愉・将軍奉答書・横浜鎖港・摂海防御の勅愉を廷臣に公示。/伝奏坊城、容保に参議推任の再沙汰を伝える。(家)
21日-幕府、容保に軍事総裁職の職掌を伝える(家)
24日-幕府、容保に軍備拡張及び摂海防備を命令。加茂川東聖護院村37,000坪を購入し、副邸とする。(家)
25日−長州藩末家・家老の召命/前土佐藩主山内容堂帰国 (詳しく)
26日−前尾張藩主徳川慶勝(容保の実兄)入京
28日−幕府、摂海防御計画を監察徳永主税、会藩神保修理・秋月悌次郎・小室金吾に命令
29日−将軍、奥医を容保に遣わす 
3月 1日−松平春嶽、朝廷尊奉と政体一新の意見書を提出/将軍、容保に軍用金2万両下賜/会津藩士広沢富次郎、長使入京不可を越前藩士中根雪江に論ず。(詳しく)
2日−天皇裁断で長州藩末家・家老の大坂召出し決定 (詳しく)
3日−前尾張藩主徳川慶勝、参与辞退/新選組、再び会津候指揮下へとの幕命 (詳しく)/容保に滞京中の参内・謁見の許可が下りる。
4日−藩祖保科正之に従三位追贈
7日−将軍参内。二条関白、容保の病気見舞い。(詳しく)
12日-伝奏飛鳥井、容保の唐蛤門警衛を免じ、堺町門に代える(職掌にあわせるため)
13日−春嶽の朝廷参与辞任が許可される。越前藩、春嶽の守護職辞任を内決する。(詳しく)
14日−容保の朝廷参与辞任が許可される(詳しく)
15日−春嶽、守護職辞退を慶喜に申し出る。(詳しく)
17日−慶喜、春嶽を慰留 (詳しく)/容保、家臣を通して伏見街道警衛を新守護職の越前藩にと幕府に稟議。許可される。
19日−新選組、新・守護職松平春嶽暗殺の風評 (詳しく)
20日−慶喜、禁裏守衛総督・摂海防御指揮職任命の朝議 (詳しく)/伏見街道警衛を越前藩に引き継ぐのは見合わせるようにとの老中の命令。(家)
21日−春嶽、守護職辞表提出
23日−幕府、守護職・町奉行・新選組に市中守衛を命ず
25日−将軍の上意により、一橋慶喜、総督・指揮職就任
27日−天狗党の筑波挙兵/長州入京嘆願
28日-容保、病を理由に辞表を提出。将軍、許可せず。徳川茂承、容保を京都に留めるよう幕府に建白。(家)
30日−容保、守護職復帰の内命を固辞。


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4月 7日−朝廷、春嶽の辞職許可/容保に軍事総裁職を免じ、京都守護職に復職の幕命/容保、守護職辞表提出(1)(詳しく)
11日−所司代稲葉正邦老中昇格。桑名候松平定敬を所司代に任命/会津藩家老横山常徳(主税)・神保利孝ら老中水野を訪ねて守護職辞表願い/伊達宗城退京。 (詳しく)
14日−幕府、守護職の辞表却下/水戸藩主慶篤の弟余八麿を会津藩主の継嗣にとの議 (詳しく)
15日-将軍、容保の病気見舞いの使者を送る。手書・脇息等下賜。(家)
17日−容保、病を理由に守護職辞表提出(2)。将軍、許可せず。
19日-老中、総督・守護職・所司代の兵の部署を決めて京都を巡邏させる。会津藩、藩士2組(60名)及び新選組を出す/幕府、会津藩の伏見街道警衛を免じ、有馬道純に。
20日−将軍家茂参内。庶政委任の勅定獲得。
21日−幕府、会津藩士横山常徳・野村左兵衛・小野権之丞・小室金吾・手代木直右衛門・外島機兵衛を二条城に召し、これまでの勤労を称して時服を下賜/容保、守護職の請書提出(「家」では22日)。唐・蛤門の警備復活。
22日- 新選組、長州人多数の京都潜入をつきとめる
5月 1日-家老横山常徳、京都を発して国許に帰る。(家)
3日−新選組近藤、進退うかがいで幕府を脅す
5日-神保利孝、容保に代わって、東帰する将軍に謁す。将軍、横山・神保・野村・外島・小野・小室・手代木に謁見を許し、昨年来の勤労を賞する。(家)
7日−将軍退京して大坂城へ。
8日-将軍に随従して下坂の慶喜、容保に使者を派遣し、留守中の京都守護を一任。(家)
14日−見廻組、会津藩に新選組の召抱えを打診
16日-将軍大坂を発して海路江戸へ。将軍、側役に容保の容態を問わせる/新選組、長州人と往来する聖護院雑掌某を捕縛し、町奉行へ。(家)
22日−尊攘浪士、会津藩士松田鼎を殺害・鳩首
29日−長州藩、進発を決定
6月 1日−宮部鼎蔵の下僕ほか、捕縛される この頃 市中警戒強化&新選組逸脱行為
5日−池田屋事件(1)
6日−池田屋事件(2
8日−池田屋事件批判の張り紙/近藤、与力上席内示を故郷に報じる 
9日−長州藩、池田屋事件について禁裏守衛総督一橋慶喜に抗議
15日−長州藩、進発開始
21日−池田屋事件をきいて進発した長州軍着坂。会津藩、見廻組、新選組、彦根藩、大垣藩京都の警戒につく
24日−薩摩藩、淀への出兵を拒否。福原越後と遊撃隊500名余、伏見到着。真木和泉・久坂玄瑞ら諸隊、山崎屯集
25日−長州藩留守居役乃美の言上。一条家門流38名の建白
26日−長州浪士、嵯峨屯集
27日−長州、京都来襲の噂。容保・会津藩兵御所内に。孝明天皇、長州兵入京拒否の勅。
29日−慶喜に長州処分諸事委任の朝命(慶喜1度めの長州退京勧告
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7月 1日−長州藩福原越後の嘆願
2日−嵯峨屯集の長州軍探索の新選組隊士の報告。東九条宿陣の土方、故郷へ書簡。
4日−伏見の福原越後に撤兵の朝命(慶喜2度目の長州退京勧告)
5日−長州派五卿、長州の要求を受け入れるようにとの建白書/新選組、西瓜売り変装の不審人物逮捕
6日−慶喜、諸藩に命じて長州に退京勧告させる(3度目)
7日-幕府、国事急により、特に金3万両を給与し、2万両を貸与。(家)
8日−新選組、四条周辺で長州藩密偵を捕縛
9日−長州中老400名の兵と到着。
11日−慶喜、監察(目付け)永井・戸川に長州退京を説かせる。佐久間象山の暗殺
12日−一条家門56名、長州藩主父子入京を再度建白
13日−長州藩益田右衛門、兵300を率いて山崎到着
15日−長州藩福原・国司の嘆願書提出
16日−慶喜、17日限りの長州退京を勧告(5回目の説得)
17日−新選組・会津藩士、慶喜の宿舎に乱入/容保、前尾張藩主徳川慶勝(実兄)に上洛を促す/薩藩ら、諸藩に征伐主張
18日− 禁門(蛤門)の変まであと1日−長州に撤兵の朝命/慶喜、撤兵を最終勧告/長州、容保の告発書を提出/親長州公卿、急遽参内。
19日−禁門の変勃発
20日 −六角獄の虐殺
21日−天王山の戦い
23日−長州追討の勅命(24日?)
25日−慶喜、容保に朝命を心得のため伝達
28日−容保、慶喜とともに慶勝に再度上洛要請
29日−十津川郷士の皇居警備追放(賀茂社の警備担当へ)
8月 3日-慶喜、会津・薩摩・越前・桑名・彦根・大垣・蒔田藩家老を召し出し、感状を贈って戦攻を賞する(家)
4日-幕府、会津藩士の池田屋事件の戦功を賞して金千両下賜。(家)
5日-老中、容保・容敬に忠勤を励むようにとの書を使わす。(家)
15日-老中稲葉正邦、会津藩家老を召し出し、会津藩と新選組を賞す(家)
19日-容保、柴盛道に老中への書簡を託して江戸に派遣。(家)
23日-伝奏、容保にしばらくは黒谷に戻らず凝華洞に留まるようにとの朝旨を伝える。(家)
25日-容保、小室金吾を尾張に派遣し、徳川慶勝に征長総督受諾を説かせる。容敬も家臣を派遣。(家)
30日-容保、将軍進発を促す書簡を送る。(家)
この月 軍制を改革して洋式砲術を導入。大砲隊を置き、林権助を隊長、高津久左衛門・井深数馬を組頭、山本覚馬・武田信愛を教授に。広川兼済の献言による。(家)
9月 2日-関白、家老神保利孝を召し、容保の病への天皇の憂慮を伝える。茶菓の内賜。関白も鮮魚を送る。(容保、病のため参内できない日が続いていたため)(家)
5日-朝廷、容保を召すが、病で神保を代参させる。伝奏、長州兵撃退を賞する叡旨を伝え、剣一口を下賜。(家)
6日-関白、小野権之丞を召す。天皇、容保の快復を祈り、洗米を内賜。容保感泣。(家)
10日-在京老中、毎月1万両下賜の幕命。また毎月米2000俵下賜(翌年正月までの5ヶ月間)(家)
15日-変後、初めて御所九門を開く。(家)
17日-容保、将軍進発を促すため、書簡を使わす。(家)


10月 9日−老中、征長軍進発を促す書簡を送る。(家)
12日−征長総督慶勝・副将松平茂昭、参内して辞し、大坂城へ。(家)
16日−伝奏飛鳥井、容保に、征長戦が終わるまで凝華洞に留まり御所を守護するようにとの朝命を伝える。(家)
25日−関白二条斉敬、会津藩士神保利孝を召し、朝命を伝えて容保に短刀下賜。(家)
11月
12月 1日-伝奏、書2通を容保・容敬に使わす。天狗党追討で慶喜不在の間の京都守衛・特に御所九門警衛を厳重にと。/慶喜の依頼により、容保、藩士に従軍を命じる。(家)
3日-慶喜、京都を進発。会津藩兵、凝華洞に参集後、進軍。(家)
15日-公用人小森久太郎、江戸から京都に戻る。(家)
19日-幕命により、米津伊勢守、容保に代わって江戸城登城。将軍から軍装刀一口下賜。(家)
27日-慶喜帰京。(家)


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