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会津武家屋敷

会津武家屋敷には、家老屋敷(西郷頼母邸復元)、会津歴史資料館、見廻組佐々木只三郎墓所。藩米精米所、旧中畑陣屋(県指定重要文化財)、茶室、会津くらしの歴史館などがあります。家老屋敷は冬期は内部を見学することができます。また、お土産屋、会津郷土料理店、喫茶店もあります。

<行き方>路線バス会津武家屋敷前下車。

◆家老屋敷(西郷頼母の屋敷を再現)

家老屋敷は西郷頼母の屋敷を復元したものです。西郷家は藩祖保科正之の分家であり、代々筆頭家老の家柄である。案内ちらしによれば、敷地面積2400坪・建築面積280坪で部屋数38となっている。

   

表玄関及び家臣の執務・警備部屋

写真ありませんm(_ _)m。
槍の間 表玄関
(写っているのは管理人ではありません^^;)
使者の間
表玄関は上級武士だけが通された玄関。左に槍の間、右に使者の間がある。 

   
槍の間の左横は役人所となっている。

御成り御殿

藩主・藩重役を迎えた一角

 
藩主(容保)訪問が人形で再現されている。藩主の座している奥の間を
「書院壱の間(御成りの間)」といい、西郷家当主の控えている部屋を「次の間」という。

     
次の間    書院壱の間

  
左:厠屋(畳敷きである) 右:厠を外から(しーなさん提供)
砂を敷いた箱車を置いてあり、使うごとに処理していた。

家族のプライベート・スペース


     
   左:表居間(家老が書見をする部屋)  右:化粧の間

*ちなみに風呂はひのきづくり。湯は台所で沸かし、手桶で運んた。
屋敷内で火を扱う場所は庫裏のみと決められていたからである。

片長屋:西郷一族自決の場の再現


*家老屋敷の片長屋が第二資料館となっており、西郷一族自刃の場が再現されている。
お線香が置いてあり、黙祷をささげることができるようになっている。

(さすがに写真をとるのが憚られました)。

西郷一族の自決
幕末の当主西郷頼母は容保の守護職就任に強く反対したが容れられず、家老を辞職し(罷免説もあり)、鳥羽伏見の戦いを経て容保が帰国した後も、恭順謝罪を説き、登城差控え・蟄居処分を受けていた。しかし、新政府軍が城下に迫るのをみて、禁を破り、息子吉十郎を伴って登城していった。屋敷に残った一族のひとたちは、戦火の迫るなか足手惑いになることを恐れて自決した。妻・田鶴子が、三人の子供たちを刺し殺した後、喉をつき、義母・義妹・妹たちもこれに続き、総勢21名が亡くなった。

なお、登城した頼母は再び恭順を説いたので、主戦派から憎まれ、暗殺の動きがあったそうで、それを察した容保により、息子吉十郎とともに越後口方面へ使者として派遣され、城下を脱出した(頼母が使者として城を出ると同時に、主戦派は刺客に後を追わせたが、刺客は故意に「見失った」と報告したともいう)。その後、仙台を経て箱館の五稜郭に至った。降服後は、一時幽閉されましたが、のち、神官として人生を送った。

◆佐々木只三郎墓所


坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺犯だといわれる見廻組を指揮した佐々木只三郎は会津藩士佐々木源八の息子で、公用人手代木直右衛門の実弟である。鳥羽伏見の戦で負傷し、潜伏先の紀伊で死去した。説明板には、会津出身の作家早乙女貢氏の尽力で、昭和58年、墓石が会津に移されたとある。(龍馬ファンが墓石を傷つけようとしたからだという噂をきいたこともありますが・・・?)墓所は武家屋敷内の美術館の裏にひっそりと設置されている。

佐々木只三郎の略年譜

天保4(1833) 1 会津藩士佐々木源八の三男として誕生
嘉永6(1853) 21 会津藩の房総警備に参加
万延1(1860) 28 遠縁の御家人佐々木家の養子になる
講武所剣術師範になる。
文久3(1863) 31 浪士組取締並として上洛。東帰組とともに江戸に戻る。清河八郎を暗殺。
元治1(1864) 32 見廻組隊長に就任・上洛
慶応3(1867) 35 近江屋に潜伏の坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺を指揮。
慶応4(1868) 36 鳥羽伏見の戦いで負傷、紀州に落ちるが死去。

(参考:『会津人物事典武人編』ほか)


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