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文久2(1862)

14: 第2の勅使東下と攘夷奉勅&親兵問題
(10月−12月)

<要約>

薩摩藩の島津久光が勅使大原重徳と東下中、京都では長州・土佐を中心とする尊攘過激派の勢力が伸張した。結果、幕府への破約攘夷督促論が盛んになり、尊攘激派の三条実美を正使・姉小路公知を副使とする第2の勅使が送られることとなり、土佐藩主山内豊範に護衛されて東下した。勅使の趣は破約攘夷と親兵設置である。

攘夷奉勅か否かは幕府にとって大きな問題だった。最初、幕府は後見職一橋慶喜が上京して開国を奏上する案でまとまっていたが、結局、攘夷奉勅と決めた。(攘夷奉勅問題

東下した第2の勅使に対して、幕府は親兵新設は拒否したが、攘夷(将軍上洛の上衆議を尽くす)を承諾し、諸大名に対して攘夷の布告を行った。

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幕薩連合策 


A. 京都における尊攘激派の勢力伸張

将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 総裁職:松平春嶽
守護職:松平容保 首席老中:水野忠精 老中:板倉勝静
天皇:孝明孝明天皇 関白:近衛忠煕
  
文久2年5月〜8月にかけて薩摩藩島津久光と勅使大原重徳が東下中、京都の情勢は一変し、攘夷が世論となった。

◆京都における薩長土・尊攘勢力の拡大

7月に長井雅楽の公武合体−開国論(航路遠略策)を捨てた長州藩.(★)は、破約攘夷を藩論としてしきりに朝廷に入説し(★)★)、藩内においても「天朝への忠節」を重視することを再確認した(★)。この結果、長州藩父子に滞京・国事周旋の沙汰が下った(★)。閏8月、勢いづいた長州藩は朝廷に破約攘夷の確定を迫った(★)

一方、土佐からは土佐勤王党の武市半平太(瑞山)にかつがれた藩主山内豊範が8月に入京し(.★)、京都守衛の沙汰を得た。土佐藩はやはり破約攘夷を主張した。(江戸にいる実力者の前藩主山内容堂は公武合体派・開国派である)。

幕政改革を端緒につけて閏8月に帰京した公武合体派の島津久光は、公武合体の意見書(★)や、破約攘夷は無謀、幕府の改革・武備充実が先、などの建白書を近衛関白に提出した(★)が、劣勢は覆らず、退京した(★)。久光退京後、在京薩摩藩においても過激派の意見が優勢になった。

肝心の孝明天皇は公武一和を重視していた(★)が、攘夷の意思も強く(★)、京都には反幕的な尊攘過激派勢力が拡大した。長州藩に破約攘夷の内沙汰が下った(★)ことを機に、長州藩と土佐藩の連携が成った(★)

◆京都における公武合体派の失権

在京薩長土などの尊攘過激派たちは、安政の大獄で志士取締に携わった者を対象とする天誅(暗殺)をもって、公武合体派を威嚇した「豆知識−京都の天誅事件リスト」)が、幕府の役人はこれを取り締まることができなかった。激派はさらに和宮降嫁に周旋した朝廷関係者(「四奸両嬪」:岩倉具視・千種有文・富小路敬直・久我建直・今城重子・堀川紀子。紀子は具視の実妹で皇女二人の生母)の排斥運動も繰り広げた。その結果、岩倉らは辞官・落飾、洛外追放などを命じられた(★)朝廷においても、公武合体派は勢力を失い、代わって過激な攘夷派が勢力をのばしていった

◆攘夷督促の勅使東下

次に、薩長土の激派は夫々の藩主を動かし、幕府へ攘夷勅諚を下賜するようにとの建白を三藩共同で提出させた(★)。これを受け、9月20日、朝廷は、激派公卿の三条実美を正使・姉小路公知を副使とする別勅使が東下させることを決めた(★)。沙汰書の内容は攘夷督促に加えて、親兵設置と定まり、土佐藩主山内豊範に随従が命じられた。これらも薩長土激派の建白によるものだった(★)。10月11日〜12日、勅使、及び土佐藩主山内豊範と500名余の藩兵が京都を出発した(★)。その後、朝廷はこの件について、長州藩を含める諸藩に国事周旋を命じた。

一方、幕府は、後見職一橋慶喜が上洛して開国を奏上する方針を立てていた。(攘夷奉勅問題へ)

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B. 幕府の国是決定:攘夷奉勅問題

将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 総裁職:松平春嶽
守護職:松平容保 首席老中:水野忠精 老中:板倉勝静
天皇:孝明孝明天皇 関白:近衛忠煕
  

◆将軍上洛と国是決定の必要性

文久2年9月7日、明年2月の将軍上洛が布告された(★)。上洛は長州藩主毛利敬親の建白書(★)や政事総裁職松平春嶽の建言(★)を容れたもので、その決定には春嶽の政事顧問である横井小楠の説得があった(背景はこちら)。16日、将軍上洛前に、後見職一橋慶喜が先発して上京することが決まった。さて、慶喜が上京するからには攘夷に関する幕府の態度を朝廷に明確にせねばならない。幕府は公式上は攘夷で朝廷と一致していたが、本音は無理だと思っていたからである。 幕府は、当然、先発上洛する一橋慶喜に開国を上奏させる計画だった。しかし、元来は開国派である春嶽が異議を唱えて破約攘夷を主張し、幕議は動揺した(★)。さらに、攘夷督促の勅使東下の報が幕府に届き、開国か鎖国(攘夷奉勅)かの国是決定は幕府にとっては急を要する最重要課題となっていった。

◆総裁職春嶽の必戦覚悟の破約(⇒公議⇒自主開国)論

春嶽の意見は、条約をいったん破棄した上で諸大名を集めて会議し、天下一致して開港しようというものであった。公議による自主開国を見据えた破約攘夷論であったが、老中・有司は反対した。春嶽は、朝旨(長州に下った攘夷の沙汰)も示して説得したが、却って反発を買い、成功しなかった(★)。しかし、春嶽の登城スト(★)や横井小楠の入説により、9月30日、幕議は、ようやく春嶽の破約攘夷論を受け入れる方向に動いた。

◆後見職慶喜の開国奏上論

ところが、後見職の慶喜は、破約攘夷論の採用に断固反対を表明した(★)。慶喜の反論の大意はつぎのようなものである。

世界万国が天地の公道に基きて互に好を通ずる今日、我邦のみ独り鎖国の旧套を守るべきにあらず。故に我により進みて交を海外に結ばざるを得ずとの趣旨を叡聞(天皇の耳)に達す」べきである。これまでの条約は不正なので破約しろというが、外国人からみれば政府と政府のあいだに取り交わした条約なので決して不正ではない。破約の交渉を行っても拒絶されるだろう。戦争になればこちらが曲だとされる。勝手も名誉にならないし、負けたらいうまでもない。諸大名を集めて会議をしても、時勢にあわない愚論がでれば、幕府は却って説得の手間がかかるだけである。自分がこういうことをいうのは「既に幕府を無きものと見て日本全国の為を謀らんとする」からである>。

慶喜の意見に感服した幕府は、翌10月1日、慶喜上洛・開国上奏と決めた(★)

◆幕議一転:破約攘夷奉勅へ

しかし、次第に後見職慶喜と総裁職春嶽の意見の相違が明らかになり、幕議は再び動揺した。

慶喜の「日本全国の為」の開国論に同意した春嶽は、開国を朝廷が受け入れないときは政権返上(大政奉還)する覚悟で臨むべきいう主張だったが、慶喜はこれに対して曖昧な答えしか示さなかった(★)(←大政奉還が議論されたのは慶応3年が最初ではなかった!)さらに、折から、会津藩を通じて勅使待遇改正の朝命が伝えられた。慶喜は待遇改正自体には賛成だが、京都からの命令で改正するのは幕府の体面上よくないとの意見だった。政権返上や勅使待遇に関する慶喜の逡巡をみて、春嶽は<慶喜の開国論は国のためではなく幕府の私権を図る因循説だったのだ。こうなっては開国論を主張するより、破約攘夷の叡慮(えいりょ:天皇の考え)を尊奉すべきだ>と再び考えを変えたのである。

また、前土佐藩主山内容堂も<ここで対応を誤れば、朝廷の決議は攘夷が攘将軍となる可能性も否定できない>など老中らに対して破約攘夷を入説した。(容堂はもともと開国派だが、藩主豊範が攘夷督促の勅使の護衛として東下しており、その筋で周旋せざるをえなかった)。さらに、攘夷を拒めば和宮を取り戻せとの勅命が降るとの内報もあった。

このような事情があり、10月20日、幕議は、開国奏上から一転して攘夷奉勅となった

なお、慶喜は持論が開国であり、やむをえず攘夷の奉勅に賛成したものの、その実行については自分には方策がないとして、なんども後見職の辞表を出している。

関連:テーマ別:国是決定 破約攘夷奉勅VS開国奏上

攘夷奉勅問題容保は攘夷奉勅論だった

10月20日の幕議では、町奉行小栗忠順の「幕府は朝廷から政権委任されているのに、朝廷や諸大名の干渉で既定の政務を変更するのは失態である。権威をしっかり立てなくてはついには諸大名に使役されることとなる」との主張に反駁し、「朝廷の干渉を拒むのは尊王の大義にもとり、外夷の屈辱を受ければ皇国の威厳を落すことになる。大義にもとり、国威を落しておいて、幕府の権威がどうして立つのか」と論じた。
余話:「文久2年(大政奉還の5年前)に「大政奉還論」を主張−大久保忠寛(一翁)」

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C. 第2の勅使東下と攘夷奉承

将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 総裁職:松平春嶽
守護職:松平容保 首席老中:水野忠精 老中:板倉勝静
天皇:孝明孝明天皇 関白:近衛忠煕
  

◆勅使入城・攘夷と親兵設置の勅書

文久2年10月27日、勅使は江戸に着いたが、将軍家茂の病のため、江戸城での勅旨伝達は11月27日に行われた。

勅書の内容は公議の上で策を決して攘夷をせよ(「攘夷の策を決して諸大名に布告すべし、策略のごときは武将の職掌なれば速やかに衆議を尽くし、至当の公論を決し、醜夷拒絶の期限をも奏聞すべし」)というものだった。さらに、もう一通の沙汰書は、諸藩から選抜した者を朝廷の親兵として京都守護にあたらせるよう評議せよというものだった。

◆攘夷奉承と親兵設置の拒絶

同年12月5日、将軍は攘夷奉承(策は衆議を尽くした上で、上洛して奏上)を回答した。回答書には前例を破って「臣家茂」と署名されていた。しかし、親兵設置については、将軍(幕府)が自ら京都を守衛するつもりであるとして拒絶した。親兵設置は朝廷が武力をもつことになるので拒んだのである。

◆勅使の帰京

勅使三条・姉小路は、留守中の京都において薩摩藩が近衛関白ら公武合体派と組んで勢力を回復させようとする動き(↓)のあることを聞いて帰京を急ぎ、将軍の回答を得るとすぐに江戸を出立した。
薩摩藩
島津久光の京都守護職任命運動
京都では、激派公卿の三条実美らが東下で不在の間、薩摩藩と朝廷の公武合体派(近衛関白や青蓮院宮)がまきかえしをはかっていた。11月12日、朝廷は、薩摩藩士の工作を受けて、久光を京都守護職にするようにとの命を幕府に下した

この朝命には、公卿の中にも反対があり、長州・土佐藩も激しく反対した。幕府内でも後見職一橋慶喜や守護職の会津候松平容保らに異論があったが、京都における公武合体派連合策を考えていた総裁職松平春嶽を始め、幕府の大勢は朝命を受け入れるつもりだった。しかし、方々に反対があるため、ただちに任命することはせず、翌春の将軍上洛にまで発表を見合わせることにした

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幕薩連合策 

<参考文献>
『続再夢紀事』・『官武通紀』・『大久保利通日記』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『維新史』・『維新土佐勤王史』・『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『徳川慶喜』

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