◆航海遠略策の朝廷建白の失敗
文久元年3月以来、長州藩は藩士長井雅楽(ながい・うた)の航海遠略策(公武合体に基づく開国論)を藩論とし、長井に京都と江戸を遊説させ、成功を収めてきた。幕府の支持も得た長井は、翌文久2年3月18日、再度入京すると、朝廷に対して正式に航海遠略策の建白を行った。しかし、京都の情勢は前回の文久元年当時とは一転しており、尊攘激派が勢力を伸ばしていた。しかも、島津久光の率兵上洛(こちら)の情報によって、京都では薩摩藩の声望が増しており、在京長州藩は後塵を廃したことへの焦りを感じていた。今さら公武合体・開国ではない雰囲気だったのである。長井の建白は時宜を得ず、失敗に終わった。(長井が公武周旋を任されたときに中老格に出世したことへの嫉みも藩内にはあったという)。情勢不利をみてとった藩主敬親の命で、長井は4月14日、退京した。長井支援のために幕府が京都に派遣していた浅野氏祐も江戸へ戻った。
◆謗詞事件と長井雅楽の失脚 
京都での入説に失敗して長井が帰府(江戸に戻る)してまもなくの5月5日、朝廷は、長井の起草した建白書に朝廷を誹謗した文言(謗詞)があり、懸念ありとの沙汰を下した。この頃、京都では建白中の「昔を思い、国威を五大州に振るうの大規模なかるべからず」という部分が、古代の朝廷隆盛の時代と外国に迫られて開国した今の時代を比較して、現在の朝廷を誹謗するものだという議論が起っていた。長井の公武合体−開国論を嫌い、長井を排斥して長州藩の藩論を一転させようという、藩内尊攘派激派の久坂玄瑞らの朝廷工作の結果だった。
長井への批難は大きく、その累は毛利家にも及ぼうという勢いだったという。長州藩主毛利敬親は在京の家老浦靱負を遣わして朝廷に陳謝し、6月5日、長井に帰国謹慎を命じると、翌6日、上京して直接朝廷の疑念を晴らすために江戸を発った。
◆長州藩論の転換:破約攘夷へ
入京した敬親は、「尊攘論にあらざれば耳を傾くる者なき形勢」(『徳川慶喜公伝』)をさとり、家臣と会議の結果、7月、長井の航海遠略策を破棄することに決し、藩論は破約攘夷へと大きく転換した。すなわち、勅許なしで調印した条約を破棄し、攘夷を行うというもので、尊攘激派の桂小五郎や久坂玄瑞の主張が通ったわけである。
航海遠略策を推し進めていた長井は、翌文久3年、切腹を命じられ、無念の最期を遂げた。<志士詩歌>
◆幕閣の交替
航海遠略策の建白失敗の影響は、幕閣にも及んだ。同策をバックアップしていた老中久世広周は6月2日、辞任した。代って老中となり、幕閣をリードしていくことになったのは板倉勝静であった。 |