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文久2(1862)/文久3

15: 幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策
(文久2年11〜文久3年1月)

<要約>

文久2年11月、幕府は、翌春の将軍上洛の下準備として、京都の尊攘派勢力を抑えるために、当初、慶喜らに大兵を率いさせての武力制圧を考えていた。しかし、総裁職松平春嶽から公武合体派連合(薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策の提案があり、この策で臨むことに決まった。(A.幕府の京都対策)。公武合体派連合策の中核と目された薩摩藩は、上京には同意したが、将軍の上洛には反対で、将軍上洛延期運動を展開した。(B. 薩摩藩の将軍上洛延期運動)

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公武合体派連合の挫折と攘夷期限


A. 幕府の京都対策:
武力制圧から公武合体派連合策へ

(文久2年11〜12月)

幕府 将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 総裁職:松平春嶽
守護職:松平容保 首席老中:水野忠精 老中:板倉勝静
朝廷 天皇:孝明孝明天皇 関白:近衛忠熙 国事扶助:青蓮院宮
  
文久2年末、翌年の将軍上洛を前にした幕府の懸案は京都で勢力を拡大している尊攘派対策だった。

◆後見職慶喜の率兵上京・京都武力制圧策

このころ、幕府にフランス軍艦が大阪湾(摂海)に入って京都に条約勅許を迫るという風評が伝わり、この噂を利用して、京都に大兵を送り、武力制圧を図ろうとする動きが起こった。すなわち、会津藩(守護職)や旗本を西上させて近畿諸藩と守りを固め、次に慶喜が大軍を率いて上洛し、最後に将軍が上洛して直接京都を守護するという計画である。

11月28日、慶喜は総裁職松平春嶽を訪ねて、「近来、京都の形勢容易ならざるよし聞え」、フランス軍艦が大阪に入港して京都に迫る噂もあるが、放置しては今後近畿がどのような状況になるか痛心に堪えないので、「余自ら二万の兵を以って大坂に上り、一時彼の地に滞在して、内は京都を警衛し、外は沿岸を防御せんと欲す。然る上は将軍家にも、なるべく速やかに御上洛ありて、京都を守護したまうべきこと勿論なり」と説明し、春嶽の意見をたずねた。

しかし、春嶽は即答しなかった。公武合体派(雄藩)連合を企図していたからである。

◆総裁職春嶽の公武合体派連合/幕薩連合策

春嶽の公武合体派連合計画(横井小楠発案)は、公家・大名の公武合体派が連携して、公武一和の国是を決定し、尊攘派勢力の伸張した京都の状況を覆すことにあった。具体的には

  1. 長州・土佐藩に忌避されている公武合体派薩摩藩国父の島津久光の国許からの上洛(情勢不利とみて帰国していた)
  2. 公武合体派大名松平春嶽(前越前藩主・政事総裁職)、山内容堂(前土佐藩主)の関東からの上洛
  3. 朝廷公武合体派の近衛関白・青蓮院宮(のち中川宮)らとの連携
が考えられていたが、特に重要視されていたのが「幕薩連合」だった。

11月29日、春嶽は幕府にこの公武合体派連合策を提案した。慶喜や幕閣も「良策」として承諾し、久光に上洛を促すことにした。ここに幕府による京都武力制圧策は立ち消えとなった。
将軍上洛延期運動:じゅんびちゅう

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