無断転載・複写・引用、及びやおい作品への利用はお断りします。
| 文久2(1862) |
<要約>
| 薩摩藩の島津久光が勅使大原重徳と東下中、京都では長州・土佐を中心とする尊攘派の勢力が伸張しました。結果、幕府への攘夷督促論が盛んになり、尊攘激派の三条実美を正使・姉小路公知を副使とする第2の勅使が送られることとなり、土佐藩主山内豊範に護衛されて東下しました。勅使の趣は攘夷と親兵設置でした。 攘夷奉勅か否かは幕府にとって大きな問題でした。最初、幕府は後見職一橋慶喜が上洛して開国を奏上する案でまとまっていましたが、結局、攘夷奉勅と決めました。(攘夷奉勅問題) 東下した第2の勅使に対して、幕府は親兵新設は拒否しましたが、攘夷(上洛の上衆議を尽くす)を承諾し、諸大名に対して攘夷の布告を行いました。 |
文久2年5月〜8月にかけて薩摩藩島津久光と勅使大原重徳が東下中、京都の情勢は一変し、攘夷が世論となりました。
◆京都における薩長土・尊攘勢力の拡大7月に長井雅楽の公武合体−開国論(航路遠略策)を捨てた長州藩は、破約攘夷を藩論としてしきりに朝廷に入説し、さらに土佐からは土佐勤皇党の武市瑞山にかつがれた藩主山内豊範が入京して、やはり攘夷を主張しました。また、在京の薩摩藩士にも尊攘激派は多く、京都では尊攘勢力が拡大しました。◆京都における公武合体派の失権在京の尊攘志士たちは、安政の大獄で志士取締に携わった者を対象とする天誅(暗殺)をもって公武合体派を威嚇しました「豆知識−京都の天誅事件リスト」)が、幕府の役人はこれを取り締まることができませんでした。激派は和宮降嫁に周旋したひとびと(「四奸両嬪」:岩倉具視・千種有文・富小路敬直・久我建直・今城重子・堀川紀子)の排斥運動も繰り広げ、岩倉らは辞官・落飾、洛外追放などを命じられました。朝廷において、公武合体派は勢力を失い、代わって過激な攘夷派が勢力をのばしていきました。◆攘夷督促の勅使東下9月21日、朝廷は、尊攘激派公卿の三条実美を正使・姉小路公知を副使とする勅使が東下することを決めました。沙汰書の内容は攘夷督促に加えて親兵設置と定まりました。これは薩長土の三藩の建議によるものでした。10月11日〜12日、勅使、及び土佐藩主山内豊範と500名余の藩兵が京都を出発しました。その後、朝廷はこの件について、長州藩を含める諸藩に国事周旋を命じました。このとき幕府では、後見職一橋慶喜が上洛して開国を奏上する方針を立てていました。(攘夷奉勅問題へ) |
勅使待遇改正:容保は朝廷から依頼され、勅使待遇改善に周旋しました。(参照「京都守護職小史」の「勅使待遇改正に尽力」) |
文久2年9月下旬、第2の勅使東下の報が幕府に届きました。攘夷奉勅は幕府にとっては大きな問題となりました。
◆後見職慶喜の開国奏上策
幕府は公式上は鎖国攘夷で朝廷と一致していましたが、本音は無理だと思っていました。最初、幕議は政事総裁職・松平春嶽の、条約をいったん破棄した上で諸大名を集めて会議し、天下一致して開港しようという意見でまとまりかけていましたが、これに後見職の慶喜は断固反対しました。慶喜の反論の大意はつぎのようなものでした。 |
攘夷奉勅問題:容保は攘夷奉勅論でした。20日の幕議では、町奉行小栗忠順の「幕府は朝廷から政権委任されているのに、朝廷や諸大名の干渉で既定の政務を変更するのは失態である。権威をしっかり立てなくてはついには諸大名に使役されることとなる」との主張に反駁し、「朝廷の干渉を拒むのは尊皇の大義にもとり、外夷の屈辱を受ければ皇国の威厳を落すことになる。大義にもとり、国威を落しておいて、幕府の権威がどうして立つのか」と論じました。 |
◆勅使入城・攘夷と親兵設置の勅書文久2年10月27日、勅使はに江戸に着きましたが、将軍家茂の病のため、江戸城での勅旨伝達は11月27日に行われました。勅書の内容は公議の上で策を決して攘夷をせよ(「攘夷の策を決して諸大名に布告すべし、策略のごときは武将の職掌なれば速やかに衆議を尽くし、至当の公論を決し、醜夷拒絶の期限をも奏聞すべし」)というものでした。さらに、もう一通の沙汰書は、諸藩から選抜した者を朝廷の親兵として京都守護にあたらせるよう評議せよというものでした。 ◆攘夷奉承と親兵設置の拒絶同年12月5日、将軍は攘夷奉承(策は衆議を尽くした上上洛して奏上)を回答しました。回答書には前例を破って「臣家茂」と署名されていました。しかし、親兵設置については、将軍(幕府)が自ら京都を守衛するつもりであるとして拒絶しました。親兵設置は朝廷が武力をもつことになるので拒んだのです。◆勅使の帰京勅使三条・姉小路は、留守中の京都において薩摩藩が近衛関白ら公武合体派と組んで勢力を回復させようとする動き(↓)のあることを聞いて帰京を急ぎ、将軍の回答を得るとすぐに江戸を出立しました。 |
島津久光の京都守護職任命運動 京都では、激派公卿の三条実美らが東下で不在のあいだ、薩摩藩と朝廷の公武合体派(近衛関白や青蓮院宮)がまきかえしをはかっていました。11月12日、朝廷は、薩摩藩士の工作を受けて、久光を京都守護職にするようにとの命を幕府に下しました。 この朝命には、公卿の中にも反対があり、長州・土佐藩も激しく反対しました。幕府内でも後見職一橋慶喜や守護職の会津候松平容保らに異論がありましが、総裁職松平春嶽を始め、幕府の大勢は朝命を受け入れるつもりでした。しかし、方々に反対があるため、ただちに任命することはせず、翌春の将軍上洛にまで発表を見合わせることと決めました。 |
<参考文献>
『昨夢記事』・『再夢記事』・『官武通紀』・『大久保利通日記』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『徳川慶喜』
他HP、同人誌・商業誌・レポート等に参考にされる場合は参考資料として出典(HPタイトルとURL)を明記するなど著作権と論文作法を守ってください。なお、やおい作品へのご利用は固くお断りします。