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文久3(1863)

19: 攘夷祈願の賀茂・石清水行幸
と長州藩の攘夷戦争
(文久3年3〜6月)

<要約>

文久3年3月11日と4月11日、孝明天皇は賀茂上下神社・泉涌寺、及び石清水神社への攘夷祈願の行幸を行った。攘夷親征を画策する長州藩の建議を入れた朝議により決まった行幸である。将軍は賀茂行幸には供奉したが、尊攘派が社前で攘夷の節刀授与を計画していたという石清水行幸は仮病を使って辞退した。A.攘夷祈願の賀茂・石清水行幸

上洛中の将軍に攘夷実行圧力の高まる中、幕府は将軍退京(大阪湾巡視)及び後見職慶喜東帰の勅許とひきかえに、攘夷期限5月10日を約束し、諸大名に布告した。幕府の攘夷は本気ではなかったが、期限当日、長州藩がアメリカ商船を砲撃を加え、さらにフランス船・オランダ船を砲撃した。翌6月初旬、アメリカ船とフランス船が次々に報復攻撃を行い、惨敗した長州藩は軍事的指導力に期待して高杉晋作を再起用した。奇兵隊が結成されたのもこのときである(B.攘夷期限の布告と長州藩の攘夷戦争

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A.賀茂・石清水行幸
(文久3年4月)


将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 総裁職:松平春嶽 守護職:松平容保
老中:板倉勝静 首席老中:水野忠精 老中格:小笠原長行 所司代:牧野忠恭
   
天皇:孝明 関白:鷹司輔熙 国事扶助:中川宮 参政・寄人:三条実美ら
  

◆攘夷祈願のための賀茂・石清水行幸

このころ、京都における尊攘派の盟主は長州藩だった。2月20日、世子毛利定広は攘夷祈願のための賀茂上下社・泉涌寺の行幸を建議した(★)。3月11日にこれを成功させると(★)、次に石清水の行幸を建議した(★)。公武合体派公卿は反対したが、尊攘激派公卿の主導で朝議は4月11日・12日の行幸と決まり、将軍の供奉の沙汰が下った()。

尊攘派は石清水神社社前で攘夷の節刀(将軍出征時に天皇が与える刀)を将軍に授け、攘夷決行を余儀なくさせようと計画していたという。また、石清水行幸が決まってまもなく、激派公卿の中山忠光が京を脱して長州に下った事件があり、この中山が長州浪人とともに上京して行幸中の天皇の輿を奪い、将軍を殺害する計画があるとの噂が流れた。後見職慶喜は中川宮や鷹司関白に石清水行幸中止を諫言したが()、長州藩の反対で行幸は決行されることになった(★)

行幸前日、かねてから行幸に消極的だったという孝明天皇は体調不良を理由に延期を関白に諮ったが、国事参政三条実美の強い反対で意思は通らなかった。

一方、その夜、幕府は慶喜の判断で家茂に仮病を使わせ、随従を辞退させた。若年の将軍を天皇の側に一人にさせて無理な勅命を下されるのを怖れたというが、攘夷の節刀授与を事前に察知して避けようとしたのだとも、当時流布していた尊攘派による将軍殺害を恐れたのだともいう(★)

行幸当日、慶喜が将軍代理として供奉したものの、社頭で将軍代理の慶喜に節刀を授けようとする動きを察してか、急病になったとして社頭には行かなかった(慶喜は本当に病気だったと回想している)。(★)
 容保は石清水行幸への将軍供奉とりやめの動きを、「幕威に傷が付く」として反対した(★) 。

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B.幕府の攘夷期限布告と長州藩の攘夷戦争
(文久3年5〜6月)


将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 守護職:松平容保 老中:板倉勝静
首席老中:水野忠精 老中格:小笠原長行 所司代:牧野忠恭
   
天皇:孝明 関白:鷹司輔熙 国事扶助:中川宮 参政・寄人:三条実美ら
  

◆幕府の攘夷期限布告

幕府は最初、攘夷期限を将軍帰府後20日の4月中旬頃とし(参照:「開国開城」「攘夷期限約束」)、さらに4月23日と約束していた。しかし、もともと攘夷を行う気はなかったので、期限が迫る18日、とりあえず将軍が京都を去るしかないと決め、その口実として、将軍の大阪湾巡視、及び鎖港攘夷のための慶喜東帰を願い出た。朝廷は、慶喜東下による攘夷期日を明らかにすること、及び将軍が帰京して報告することを求めたので、幕府にとってはいわばやぶへびとなった。 20日、幕府は将軍退京、及び慶喜東帰とひきかえに、朝廷に対して外国拒絶期限5月10日を約束し、即日、諸大名に布告した。幕府はもちろん本気で攘夷を行うつもりはない。

◆長州の外国船砲撃と朝幕の対応

期限当日の5月10日、長州藩はたまたま関門海峡を通過したアメリカ商船ペングローブ号に砲撃をしかけ、さらに23日にフランス軍艦キンシャン号、26日にオランダ船メドューサ号を砲撃した。不意をつかれた外国船は敗走し、長州藩は「勝利」に沸いた。

朝廷は、6月1日、尊攘激派の主張で長州藩を賞賛する沙汰を下す一方で、6日には傍観の藩を非難し、長州と一体となって攘夷を実行するよう促した。さらに14日、国事寄人の正親町公菫攘夷監察使として長州に派遣し、攘夷を賞賛する勅を伝えさせた。

一方、外国と交渉中の幕府にとって、長州の外国船砲撃事件は晴天のへきれきだった。長州にとっては攘夷の勅を奉じた外国船砲撃だが、幕府にとっては無謀過激の攘夷を戒めた幕令に違背した行為であった。幕府は、長州に対して、12日、外国拒絶(鎖港)を交渉中にみだりに兵端を開いたことを詰問し、さらに、7月8日、交渉いかんで打払うときがくれば改めて命令するので、みだりに外国船に発砲してはならないと命じた。

3月の勅命により、攘夷の方策と諸藩の統率は幕府への委任が確認されたはずだったが、尊攘激派が主導する朝議は幕命とは異なる指図を、しかも諸藩に対して直接出し続けた。政令帰一はならず、公武間の対立は広まる一方だった。

◆米仏の報復と奇兵隊の創設

外国側は幕府に厳重な抗議を行い、翌6月初旬、米仏の軍艦が次々と下関に報復攻撃を行った。長州は惨敗し、隠棲中の高杉晋作の軍事指導力を期待して彼を再起用した。このとき高杉が考えた新しい軍制が、陪臣・雑卒・藩士、そして士農工商様々な階級出身者から成る奇兵隊である。

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<主な参考史資料>
越前藩関係:『昨夢紀事』・『再夢紀事』・『続再夢紀事』・『逸事史補・守護職小史』
会津藩関係:『会津藩庁記録』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』
慶喜関係:『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』
その他:『官武通紀』・『大久保利通日記』
<主な参考専門書・一般書>
『開国と幕末政治』・『徳川慶喜』・『高杉晋作』・『幕末長州の攘夷戦争』・『奇兵隊』

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