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文久3(1863)

23: 大和行幸計画と
会薩−中川宮連合による禁門(8.18)の政変
(文久3年8月)

<要約>

将軍東帰後、尊攘浪士による天誅が頻発する中、尊攘激派の工作で大和行幸の詔が下った。神武陵等に行幸して攘夷親征の軍議を行い、伊勢神宮に行幸するという内容である。しかし、実は孝明天皇は親征には消極的で、この詔は偽勅だった。(A.大和行幸計画

将軍東帰後、京都の幕府代表となり長州・激派勢力と対立を深めていた京都守護職会津藩は、大和行幸の動きに対抗して、在京薩摩藩と反長州・激派で連携し(会薩連合)、公武合体派の中川宮を擁して、激派の専横を憎んでいた天皇の了解のもと、朝廷政変を実行した。この結果、長州、及び激派公卿が京都から追放され、朝政は孝明天皇−公武合体派が実権を握った(B.禁門(8.18)の政変)。

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A.大和行幸計画
(文久3年7月)

幕府/
京都
守護職:松平容保 所司代:稲葉正邦(淀)
幕府/
江戸
将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 首席老中:
水野忠精
老中:板倉勝静
  
朝廷 天皇:孝明孝明天皇 関白:鷹司輔熙 国事扶助:中川宮 参政・寄人:三条実美ら

◆長州藩の攘夷親征の建議

このころ、京都においては、尊攘激派の主張する攘夷親征が大きな政治課題となっていた。最も過激なものは、久留米の神官真木和泉の親征→討幕論であり、同調する志士も少なくなかった。このような攘夷親征運動の盟主となっていった長州藩は、7月18日、藩論として攘夷親征を鷹司関白に建議した。

翌日、関白は在京の因幡藩主池田慶徳、備前藩主池田茂政、米沢藩主上杉斉憲、及び阿波藩主世子蜂須賀茂韶に親征の可否を諮問したが、四侯は攘夷には同意するものの、徳川家を脅かしかねない即時親征には反対だった(参照:文久3年7月19日)−関白、在京四侯らに攘夷親征を諮問)。また、中川宮ら公武合体派公卿も親征には不賛成だった。

親征の建議採納のために、尊攘激派は猛烈に運動を展開した。そのなかには、親征に否定的(幕府への攘夷委任を主張する者も含め)な公卿を威嚇するため、「幕吏と姦謀を通じ、逆賊(幕府のこと)の賄賂を受けて王政を防ぐ」(『徳川慶喜公伝』)者の天誅をしきりに行ったことも含まれる。

◆大和行幸−攘夷親征の詔

文久3年8月13日夜、激派の運動が功を奏し、ついに大和行幸(攘夷親征)の詔が公布された

『今度攘夷御祈願の為、大和國行幸、神武帝山陵・春日社等御拝、暫く御逗留御親征軍議あらせられ、其上神宮行幸の事』−孝明天皇が上位祈願のために大和に行幸し、神武天皇陵などを参拝し、攘夷親征の軍議を開いたのち、伊勢神宮に報告する・・・というものである。

同時に、鷹司関白(別名「長州関白」)は、長州藩主父子のいずれかの上洛を命じた。しかし、実はこの親征の詔は当の孝明天皇の感知しない、いわゆる偽勅だった。孝明天皇は攘夷には熱心だが、即時親征には反対だったのである。

関連:■テーマ別文久3「大和行幸と禁門の政変

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B. 禁門(8.18)の政変
(文久3年8月18日)

幕府/
京都
守護職:松平容保 所司代:稲葉正邦(淀)
幕府/
江戸
将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 首席老中:
水野忠精
老中:板倉勝静
  
朝廷 天皇:孝明孝明天皇 関白:鷹司輔熙 国事扶助:中川宮 参政・寄人:三条実美ら

◆公武合体派の巻き返し:会薩−中川宮連合の成立

親征の詔が発せられると会津藩を始めとした公武合体派は激昂した。ここにおいて、会津藩と、朔平門外の変以降、長州藩におされて影響力低下に悩む在京薩摩藩との電撃的な連合が成立したもっと詳しく)。彼らは公武合体派の中川宮を擁して、京都政界からの長州勢力一掃をめざすクーデターを計画した。激派により意思が矯められることに不満を感じており、親征にも不賛成であった孝明天皇の了解のもと、計画は実行に移された

(参照:「今日の幕末京都」 文久3年8月15日−中川宮、参内謁見。偽勅を知り、関係者処分を請う / 8月16日−孝明天皇、中川宮に会津に処理させよとの密旨)

◆禁門の政変(8.18の政変)

8月18日の子の刻(深夜0時ごろ)過ぎから、中川宮・容保ら公武合体派の公卿が参内した。御所各門(禁門)は会薩所司代の兵に固められて閉鎖され、長州藩や激派公卿を締め出したまま、早朝に朝議が開かれた。その結果、以下のことが決まった。
  1. 攘夷親征(大和行幸)の延期
  2. 三条実美ら(長州系)激派公卿の参内・面会禁止
  3. 国事参政・寄人の役職廃止(国事参政・寄人は激派公卿の集まりだった)
  4. 議奏の交替
さらに、長州藩の堺町御門警備解任が勅され、長州藩士の九門内出入り、及び藩主父子の入京が禁止された。

この政変の結果、長州藩とともに三条実美をはじめとする激派公卿(七卿)は京都を去り(七卿の都落ち)、朝廷は公武合体派の掌握するところとなった。(もっと詳しく:「今日の幕末京都」文久3年8月18日−禁門の政変(8.18の政変))。

関連:■テーマ別文久3「大和行幸と禁門の政変

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(2002.4.12, 2005.4.20)


<主な参考文献>
『続再夢紀事』・『会津藩庁記録』・『鹿児島県史料』・『修訂防長回天史』・『昔夢会筆記』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『維新史』『日本歴史大系 開国と幕末』・『幕末政治と倒幕運動』・『徳川慶喜増補版』



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