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15: 尊攘派による「天誅」と幕府の浪士対策
(文久3年1〜2月)
<要約>
文久2年秋に端を発した尊攘浪士による公武合体派への脅迫・暗殺(「天誅」)事件は、文久3年に入っても続いた。公武合体派公卿は萎縮し、脅迫に負けて朝政から身をひく者もあった。(A尊攘派浪士による脅迫・天誅)
入京した後見職慶喜、総裁職春嶽、守護職容保らにとって、浪士対策は重要課題の一つだった。当初、幕府は京都守護職会津藩の浪士懐柔策(言路洞開)を容認したが、久坂玄瑞らの関白邸推参・脅迫事件を機に、浪士対策の勅諚を要請し、違反者は処罰することを決定した。勅諚が得られぬうちに、浪士が足利三代将軍の木像の首を取り、三条大橋に鳩首するという事件が起った。尊氏の首級を現将軍に擬し、足利幕府に借りて現幕府を非難したのである。
それまで懐柔策を主張していた守護職容保は、ついに犯人の尊攘浪士逮捕に踏み切り、足利木像鳩首事件は守護職(幕府)による浪士取締(弾圧)の始まりとなった。(B幕府の浪士対策) |
攘夷期限設定
将軍上洛と大政委任問題
| 幕府/江戸 |
将軍:家茂 |
老中:板倉勝静 |
首席老中:水野忠精 |
| 幕府/京都 |
後見職:一橋慶喜 |
総裁職:松平春嶽 |
守護職:松平容保 |
老中格:小笠原長行 |
所司代:牧野忠恭 |
|
| 朝廷 |
天皇:孝明 |
関白:近衛⇒鷹司輔熙
内覧:近衛忠熙 |
国事扶助:青蓮院宮 |
◆尊攘派浪士による公武合体派への脅迫/天誅
文久2年秋に端を発した尊攘派浪士による脅迫・天誅事件は、文久3年に入っても、将軍に先発して入京した後見職慶喜、守護職容保らを挑発するかのように続いた。浪士の陰には長州・土佐、及び彼らと結んだ朝廷内の尊攘激派がいた。
主な事件とその影響を時系列に列挙すると以下のようになる。
| 1/10 |
公武合体派大名宇和島藩伊達宗城の旅宿に脅迫文 |
| 1/11 |
長州藩士久坂玄瑞ら慶喜の旅宿におしかけ攘夷期限決定を要求<詳細> |
| 1/22 |
幕府に寝返ったとして志士池内大学暗殺・鳩首<詳細> |
| 1/24 |
公武合体派公卿(鷹司関白、近衛前関白、青蓮院宮、中山忠能、正親町三条実愛)邸に脅迫文。特に議奏中山・正親町三条宅への脅迫文には池内の耳を同封し「辞職せねばこうなる」と記す。<詳細>
⇒影響:中山忠能・正親町三条実愛は、議奏の辞職を願い出て、27日に勅許される。 |
| 1/28 |
和宮降嫁を周旋した千種有文の家臣賀川肇暗殺 |
| 2/1 |
賀川の首級を慶喜の旅宿に、右腕を千種邸へ、左腕を岩倉具視邸に置いて脅迫。<詳細>
⇒影響?:朝廷、千種・岩倉らに重慎、両者に協力した公武合体派官女今城重子、堀河紀子に剃髪を命令 |
| 2/6 |
千種家出入りの唐橋村惣介斬殺・土佐藩河原町藩邸(公武合体派前土佐藩主山内容堂の旅宿)裏に鳩首。 |
|
(尊攘派公卿中山忠光、久坂らと千種・岩倉暗殺を計画するも宮部鼎蔵らに慰留され、鷹司関白への建白提出に方針転換) |
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| 幕府/江戸 |
将軍:家茂 |
老中:板倉勝静 |
首席老中:水野忠精 |
| 幕府/京都 |
後見職:一橋慶喜 |
総裁職:松平春嶽 |
守護職:松平容保 |
老中格:小笠原長行 |
所司代:牧野忠恭 |
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| 朝廷 |
天皇:孝明 |
関白:近衛⇒鷹司輔熙
内覧:近衛忠熙 |
国事扶助:青蓮院宮 |
◆後見職一橋慶喜と守護職松平容保の意見対立 
上洛した幕府側勢力にとって、浪士対策は攘夷問題と並ぶ大きな課題だった。しかし、その方法論をめぐっては厳しい処分を主張する後見職の一橋慶喜と、懐柔策(言路洞開:下から上へのコミュニケーションの道を開く)を主張する京都守護職の松平容保が対立していた。(詳細は「京都守護職通史」の「浪士対策(準備中)」)
◆守護職容保の懐柔策(言路洞開)採用
幕府が浪士対策を定めることができない間に、尊攘派浪士による公武合体派公卿や大名への脅迫が相次いだ。脅迫が朝廷の重職に及んだことを重く見た朝廷は、2月1日、諸藩の重臣に対し、一連の騒動の対策として、藩内調査と言路洞開をはかるよう達した。ここにきて、容保は、再度、慶喜に言路洞開を建議し、今度は慶喜の同意を得たので、4日、近衛前関白(公武合体派)に言路洞開の建白書を提出した。前関白はこれを嘉納し、京都町奉行所を通じて言路洞開の町ぶれが布告された。会津藩には浪士が往来し、のち天誅組総裁となった藤本鉄石なども容保と面談している。
◆尊攘激派の関白邸推参と幕府の硬化
「後見職総裁職の上洛と攘夷期限約束」で記したように、2月11日、尊攘激派の長州藩士久坂玄瑞・肥後藩士轟武兵衛や激派公卿らが鷹司関白邸に押しかけて居座り、攘夷期限・人材登用(国事掛の人物精選)・言路洞開の三策を「今日中に決定せよ」と迫る事件が起こった。この結果、攘夷期限が決定し、また朝廷には尊攘激派中心の国事参政・寄人が新設されるなど、政局は尊攘派有利に動いたが、幕府の浪士対策は硬化した。
(1)守護職所司代の藩兵巡邏開始
2月11日、「浪士を鎮撫するは兵力にあらざれば成がたき」を痛感した守護職容保は、ついに藩兵三隊(約60名)を出して洛中を巡邏させることにした。法を犯すものは捕縛し、反抗するものは斬殺も可という方針である。続いて所司代も兵を出した。
(2)浪士処分の決議
2月14日、二条城で浪士処分の議論が行われ、「君親をすてて国事に奔走する者どもは、さとしてその主に復帰せしめ、その主なき者は幕府にて扶助すべし、ただこれを天皇の御前にて論決し、勅諚をあおぎて施行すべし、(勅諚に)違う者は厳科に処せん」と決まった。しかし、朝廷は、前半には同意するが厳科に処せんというのは浪士の攘夷運動を挫く怖れがあるとの理由で「御沙汰に及ばれ難し」と回答した。
◆足利将軍木像鳩首事件−会津藩と尊攘派の対立
2月22日夜、何者かが京都等持院の足利三代将軍の木像の首を取り、三条大橋に鳩首するという事件が起った。足利幕府に借りて現幕府を非難し、尊氏の首級を現将軍に擬したものだった。
足利木像鳩首事件には、実は会津藩士大庭恭平が関与していた。会津藩は大庭を浪士の間に潜伏させて事情を探らせていたが、この大庭が交わっていた浪士たちが足利木像鳩首の犯人であり、大庭も計画〜実行まで参画していた。大庭から報告をきいた容保は、激怒し、それまでの寛容だった浪士対策を一転させた。26日、容保は、慶喜・慶永の同意を得た上で浪士を一斉に捕縛した。足利木像鳩首事件は、京都守護職の浪士「弾圧」の契機となった事件であり、以後、京都守護職会津藩と尊攘激派浪士は対立を深めることになった。 |
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<参考史資料>『続再夢紀事』/『会津藩庁記録』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』/『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』/『官武通紀』/『大久保利通日記』/『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『徳川慶喜』
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