| 文久3(1863) |
<要約>
| 文久3年3月、攘夷奉勅のため将軍家茂が上洛した。後見職一橋慶喜は天皇に大政委任の再確認を求め、天皇から「すべてこれまでどおり委任」との勅語を得たが、鷹司関白が将軍に渡した沙汰書は「征夷将軍は委任するが国事は事柄により諸藩に沙汰」と限定的、かつ将軍を攘夷の責任者とするものとなった。尊攘激派公卿の意を斟酌したからとされ、幕府側の工作は裏目に出たのである。(A.将軍上洛と大政委任問題) 一方、総裁職松平春嶽は将軍辞職・政権返上を主張したが、意見が通らないのを見て辞表を提出し、辞表が認められないまま帰国して総裁職罷免・逼塞処分を受けた。また、公武合体派から嘱望されていた薩摩藩国父島津久光も、上洛したものの見込みがないと悟り、滞京5日で京都を去った。続いて前土佐藩主山内容堂・宇和島藩主伊達宗城も帰国し、公武合体派連合計画は完全な失敗に終った。(B公武合体派の退京・引退) |
| 幕府/京都 | 将軍:家茂 |
後見職:一橋慶喜 |
総裁職:松平春嶽 |
| 守護職:松平容保 |
老中:板倉勝静 |
老中:水野忠精 | |
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老中格:小笠原長行 |
所司代:牧野忠恭 | ||
| 幕府/江戸 | 江戸城留守居:徳川茂徳(尾) | ||
| 朝廷 | 関白:鷹司輔熙 内覧:近衛忠熙(前関白) |
国事扶助:中川宮 |
三条実美ら |
文久3年3月4日、将軍家茂が入京した。将軍に先立って上洛していた後見職慶喜と総裁職春嶽は、尊攘激派の勢力を覆すことができず、それどころか実行不可能な攘夷の期限を4月中旬と約束していた。(→「開国開城」「公武合体連合策挫折と攘夷期限」)。ここにきて、慶喜と春嶽の意見の違いは抜き差しならぬものとなっていった。
◆総裁職春嶽の将軍辞職・政権返上(大政奉還)勧告
総裁職春嶽の意見は将軍辞職・政権返上だった。総裁職春嶽は、3月3日、上洛途上の将軍家茂大津まで出迎えに行って辞職を勧告し、さらに家茂入京翌日の5日にも将軍辞職の意見書を提出した。その大意は「将軍上洛に先立って努力したが今日にいたっても何もできなかった。将軍がなにか別の案を持っているならともかく、そうでなければ将軍の職掌がまっとうできない旨を天皇に言ってすみやかに辞職するべきである」・・・つまり政権返上覚悟で攘夷はできないと断るしかないと言ったのである。もちろん春嶽自身も辞職するつもりだった。(春嶽の大政奉還論の詳細は次項(2))
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| 幕府/京都 | 将軍:家茂 |
後見職:一橋慶喜 |
守護職:松平容保 |
| 老中:板倉勝静 |
首席老中:水野忠精 | 老中格:小笠原長行 |
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| 所司代:牧野忠恭 | |||
| 幕府/江戸 | 江戸城留守居:徳川茂徳(尾) | ||
| 朝廷 | 関白:鷹司輔熙 内覧:近衛忠熙(前関白) |
国事扶助:中川宮 |
三条実美ら |
◆松平春嶽の総裁職辞表提出
政事総裁職の松平春嶽は将軍辞職・政権奉還以外に策がないとしていたが、自分の意見が容れられないのをみて、3月9日、ついに総裁職の辞表を提出した。その理由は「総裁職就任以来、公武合体の主意を貫くため心を砕いてきたが、不肖の身ゆえ、公武一和の筋が徹底せず・・・奉仕の目途も失い、危急の時節に職が務まらない」からとしている。春嶽が辞職し、京都を去っては影響が大きいと、後見職の慶喜らは翻意を促したが、春嶽はききいれなかった。
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<主な参考史資料>
越前藩関係:・『続再夢記事』・『逸事史補・守護職小史』
会津藩関係:『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』・『会津藩庁記録』
慶喜関係:『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』
その他:『官武通紀』・『大久保利通日記』
<主な参考専門書・一般書>
『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『徳川慶喜』
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