「開国開城」-「開国(ペリー来航直前)」補足


★1補足:オランダの開国勧告の謝絶

阿部正弘は、開国勧告を謝絶しただけではなく、さらに、オランダとのこのような「通信」も「祖法」に反するので、今後は同様の親書を送らないよう申し入れる通告書を、国王への贈答品とともに、オランダ政府高官宛に送った。

幕府のこのような態度について、『日本歴史大系 幕藩体制の展開と動揺(下)』では、鎖国の祖法に縛られていたのではなく、「鎖国堅持の意向を外国に周知徹底させるためだったと思われる」と分析している。また、開国勧告が届いた時期が、天保9年閏9月の水野忠那の失脚以来、土居利位⇒水野忠那⇒阿部正弘と、1年半の間に首席老中が三回入れ替わるという「異常な事態」であったことを指摘し、なんびとも開国への決断をなしえることは困難であっただろうと付け加えている。(IF:このときに自主的に開国していれば、砲艦外交に屈しての開国という事態は防げ、攘夷の盛り上がりもまた違ったものになった・・・かも?・・異国大嫌いの孝明天皇はいまだ即位せず、朝廷で力を握っていたのは開国貿易論者だったらしい鷹司政通だったし・・・)

なお、水野忠那の再任については、開国勧告の処理のための再任であったが、開国論を主張したために再辞任に追い込まれたとする福地源一郎の説があるそうだ。

参考:『日本歴史大系 幕藩体制の展開と動揺(下)』第三章

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★2補足:ビッドル来航

ビッドルは巨艦2隻で来航し、幕府は番船を含め大小の船々で囲ませて大騒ぎになったという。その軍事力(砲門数)の差は脅威的だったというが、アメリカ側の記録では、日本人は(恐れることもなく)船に数百人も乗り込んできて、大変友好的な雰囲気だったという。それで、ペリーは自分が日本に行くときには、威厳を保つ為に幕府高官しか船に乗せないと決めたという。どうやら、日本人は大変好奇心旺盛な民族らしい。

ビットルが穏便に退去したのは、アメリカ政府から受けていた指示が通商に関する日本側の意思の確認と、通商の意思があれば条約を結ぶことであり、通商の強制ではなかったからである。(そんなことを知らない幕府は、ビッドルが穏便に退去したことにより、ペリー来航の予告にも、同じようなことだと思ってさほど危機感を感じず、対策を講じなかった可能性はある・・・かも?)。

参考:『日本開国史』第一章、『ペリー提督日本遠征記』

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★3補足:ペリー来航の背景

ペリー来航による開国要求の背景には、太平洋横断汽船航路開設捕鯨船の北太平洋進出があった。

当時、アメリカは産業革命の真っ只中であったが、それを支えていたのが紡績業の発展であった。アメリカは、その市場として魅力的な中国で、ライバル・イギリスに優位を確保できる「最後的条件」となる太平洋横断汽船航路開設を切望した。日本は太平洋航路における絶好の寄港地であり、日本の開国は中国進出にとって不可欠だと目された。

また、捕鯨業の拡大とともに漁場が北太平洋に移り、日本近海で捕鯨船の遭難がしばしば起こった。自国民の生命と財産を保護するために、日本に対して、漂流船員救助と船舶の寄港地を求めることは、アメリカ政府の「義務」だと見なされていた。

参考:『日本開国史』第一章、『集英社版 日本の歴史15 開国と倒幕』第二章

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★4補足:オランダのペリー来航予告:予告が漏らされた範囲

ペリー来航予告は、海防掛以外には極秘扱いとされたが、琉球開国担当の薩摩藩主島津斉彬、長崎警備の筑前(福岡)藩主黒田斉博・肥前(佐賀)藩主鍋島斉正には内密に知らされ、そこから御三家に漏れていったという(『開国への布石)』。一方、薩摩・筑前・肥前に加え、江戸湾警備の四大名(川越・忍・彦根・会津藩)、及び御三家に情報を公開していたという研究もあるそうだ(青木美智雄氏「ペリー来航予告をめぐる幕府の対応について」『日本福祉大学経済論集』第2号、1991、←『幕末の天皇』より孫引き)。御三家の水戸藩が来航予告について知っていたことは関白鷹司政通への斉昭書簡(署名はないが筆跡から断定されるそうだ)から明らかなようである。いずれにしても、限られた範囲であったことは間違いない。

参考:『開国への布石』第三章、『幕末の天皇』第四章

★5補足:来航予告に対する阿部正弘の不作為

阿部の評伝『開国への布石』では、この「不作為」の理由を、風説書が正確かどうかの確証はなく、一年後の来航が絶対とはいえないので「すべては来てからのこととはらをくくり」、「必要以上に民心を騒がすような行動を」とらなかったと説明し、「何もしない「不作為」も彼(阿部)の政治手法のひとつ」だとしている。

参考:『開国への布石』、『集英社版日本の歴史15 開国と倒幕』、『(講談社版)日本の歴史18 開国と幕末変革』

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★6補足:薩摩藩お家騒動

薩摩藩では当主島津斉興(なりおき)と世子斉彬(なりあきら)が対立しており、家督相続をめぐって斉彬の異母弟(斉興の愛妾由羅の息子)久光擁立の動きが生まれ、家臣は斉彬派と久光派に分かれて党争を繰広げた。嘉永元年(1848)5月と翌2年6月、斉彬の次男と四男が次々に死に、由羅が斉彬父子を調伏したからだとの噂が流れた。斉彬派の斉興隠居・斉彬擁立の動きはますます盛んとなり、障害となる島津将曹らの暗殺を企てた。これを知った斉興は激怒して、嘉永2年(1849)、中心人物の高崎五郎右衛門・近藤隆左衛門ら6名に切腹を命じたのを始め、総勢約50名に切腹・遠島・謹慎などの重い処分を下した。「高崎崩れ」、「近藤崩れ」、「お由羅騒動」、「嘉永朋党事件」と呼ばれる薩摩藩お家騒動である。

大久保利通:父・利世が事件に連座して遠島となり、利通(21歳)も職を罷免・謹慎となった。生活は非常に困窮したという。謹慎中に、友人西郷隆盛・伊地知政治(いじち・まさはる)・吉井幸輔・海江田信義(有村俊斎)らと読書会を始めたが、これがのちに薩摩藩政を動かすことになる精忠組の起こりである。

西郷隆盛:切腹者の一人、赤山靱負(ゆきえ)は西郷隆盛の父・吉兵衛が出入りしていた日置島津家次男で、吉兵衛が介錯を務めた。吉兵衛は形見にもらい受けた血染めの肩衣を隆盛に与え、隆盛はそれを見て発奮したという。

なお、事件に連座して、そのほか高崎左太郎が遠島になり、藤井良節は筑前福岡に亡命している。

参考:『人物叢書 島津斉彬』(吉川弘文館)、『大久保利通』(中公新書)

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