「開国開城」-「開国前夜」補足


大塩平八郎の乱

天保の大飢饉の影響は、全国の米が廻船される天下の台所大坂にも及び、餓死者がでていた。元大坂東町奉行与力で、陽明学(「知行合一」を主眼とする学問)の塾「洗心洞」をひらいていた大塩平八郎は、奉行所に対して貧民救済策を具申したが退けられた。それどころか、町奉行跡部大和守所は庶民の米の売買を取締まりながらも、大量の米を幕府御用のために江戸に廻した。大塩は、腐敗した町奉行と豪商を罰して金穀を貧民に分配するため、市中蜂起を行うことを決意した。

天保8(1837)年1月、大塩は蔵書をすべて売り払うと、それを資金にして、一枚が一朱と引き換えられる施行札(金券)を市中・近郊農村の貧民に配り、ひそかに蜂起の同志を募った。2月、大塩は幕府要人の腐敗を告発する密書を徳川斉昭・筆頭老中大久保忠真(たださね)ら宛に送り、檄文を近郊の村に発した。

2月19日、大塩は洗心洞の弟子とともに「救民」とかいた旗をかかげて決起した。同志の密告により挙兵計画が直前に漏れ、予定より半日早い蜂起であった。檄文を読んだ近在の農民たちも加わり、一時は総勢300人近くになったという。彼等は豪商焼き討ち・打ちこわしを行い、大坂城に迫る勢いをみせたが、乱は一日で制圧された。大塩父子は町内に潜伏したが、3月27日、幕吏に囲まれ、用意しておいた爆発物に火をつけて自殺した。大塩ほか事件の首謀者17名の遺骸は市中引き回しの上、磔に処された。

参考:『日本歴史大系 幕藩体制の展開と動揺(下)』、『日本の歴史 開国と倒幕』、「ビジュアル日本の歴史45 大塩平八郎の反乱」

関連サイト大塩の乱資料館

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水野失脚後の幕閣政争

水野の失脚後、新たに福山藩主阿部正弘(開国時の首席老中)らが入閣し、首席老中には土居利位(どい・としつら)が就任した。水野の改革事業は白紙に戻され、腹心も追放された。とおろが、その土居も、翌天保15年(1844)、火事で炎上した江戸城本丸再建事業の上納金が大名の反発を招いて、辞任に追い込まれた。大名の異議による老中失脚が短期間に相次いだことは、幕府の弱体化を表面化させる結果となった

土居の後任には水野が復帰したものの、阿部らと対立し、力をふるえないまま、弘化2年(1845)には再度辞任となった。水野はさらに「不正」を理由に減封・隠居・蟄居謹慎処分を受け、水野派閣老・目付鳥居耀三も蟄居・幽囚を命ぜられて、水野派は権力から一掃された。代わって、阿部が首席老中に就任し、ここに、約1年半の間に首席老中が3人も入れ替わる政治混乱は収束した。

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鎖国

江戸幕府は、鎖国政策をとっていた。ところで、鎖国は幕府の「祖法」のようなイメージがあるが、実は徳川家康は、積極的に通商を行っていた。幕府が方針を転換したのは2代将軍秀忠・3代将軍家光の時代で、(1)キリスト教の脅威の排除、(2)幕府による海外貿易の独占、(3)銀の海外流出防止等を通した徳川支配体制の強化が目的だった。

とはいえ、日本は、海外へのドアを完全に閉鎖して、世界から完全に孤立していたわけではない。日本人の海外渡航と在外日本人の帰国は禁止されたが、オランダと中国との通商は長崎において引き続き行われた

さらに、通信相手には朝鮮・琉球が認められていた。幕府は朝鮮外交は対馬藩に、琉球外交は薩摩藩に任せていた。これに加え、北方の情報が蝦夷地の支配を委任した松前藩から入っていた。(これらの情報ルートを、長崎口、対馬口、薩摩口、松前口四つの口という)。海外情報ルートとして、最も重要だったのは長崎口のオランダで、オランダ商館は、毎年、外国の情勢を記した「オランダ風説書」を幕府に提出していた。また、在外日本人の帰国は許可されなかったが、漂流民が外国船によって送還されるケースがあり、彼等の見聞も情報源となった。漂流民の見聞の公開は幕府によって制限されたが、写本等のかたちでひそかに伝達されていった。

参考:『開かれた鎖国』、『集英社版日本の歴史15 開国と倒幕』、『日本歴史大系 幕藩体制の展開と動揺(下)』

関連サイト蘇る出島

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蛮社の獄

すいません、整理中です。江川・川路ら幕臣と華山の関係とか、江戸湾巡検をめぐる江川と鳥居の対立とか、華山・江川(蘭学)と鳥居(漢学)の思想対立とか、幕府による蘭学弾圧とか、華山と大塩平八郎の関係とか、いろいろありまして・・・^^;。

関連サイト田原町博物館(渡辺崋山について)、高野長英記念館

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