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私的幕末用語集

泡沫によくでてくる幕末用語(事件も含めて)をいろいろな本をもとにかんたんに整理していきたいです。明らかな間違いあったら教えてくださるとありがたいですm(. .)m。

  サ タ ナ ハ マ ヤ ラ ワ

あけぼのていじけん
明保野邸事件
元治元(1864)年の池田屋事件直後、浪士集合の情報をきいて駆けつけた新選組が同所を捜索した。浪士は集合していなかったが、居合わせた武士1名が逃げようとしたため、新選組応援のために配属されていた会津藩士柴司が槍で逃亡を防ごうとし、相手を傷つけた。相手は実は土佐藩士麻田時太郎であった。会津と土佐の争いに発展することを恐れた会津藩は見舞いの使者を送ったが、土佐藩では麻田を自刃させた。これを聞き、柴は自ら自刃し、両藩の関係悪化を防いだ。
あしかがもくぞうきゅうしゅじけん
足利木像鳩首事件
文久3(1863)年の将軍家茂上洛前に、尊攘浪士らが京都等持院の足利三代将軍の木像の首を取り、三条大橋に鳩首した事件。足利幕府に借りて現幕府を非難し、尊氏の首級を現将軍に擬したものだった。<参照:「今日の幕末」「足利木像鳩首事件」
あんせいのたいごく
安政の大獄
安政5〜6(1858〜59)年に、幕府大老井伊直弼が、条約勅許と将軍後継をめぐって対立関係にあった一橋派や尊攘派の大名・役人・公家・志士を処罰した事件。<参照:「開国開城」「安政の大獄」
あんせいのだいじしん
安政の大地震
安政2(1855)年に江戸で起こった大地震で多大な犠牲をもたらした。当時の尊皇派の指導的立場にあった水戸藩士藤田東湖も死亡。
いがくしょ
医学所
文久1(1861)年に幕府が設置した西洋医学所(蘭医学教育機関)で、同3年に医学所と改称。起源は安政4(1857)年に蘭医伊東玄朴らが設けた種痘所。のち東大医学部に発展。
いくののらん
生野の乱
文久3(1863)年に、但馬生野(現在兵庫県)で、尊攘派の平野国臣らが、禁門の政変(8.18の政変)で都落ちした「七卿」のうち沢宣をかついで討幕挙兵した事件。
いちかいそう
一会桑
幕末京都政治を一時牛耳った、一橋(禁裏守衛総督・一橋慶喜)、会津(京都守護職・松平容保)、桑名(京都所司代・桑名容敬)の三者をいう。一会桑勢力、一会桑権力とも。
いちくんばんみん
一君万民
じゅんびちゅう
おうせいふっこ
王政復古
慶応3(1867)年、薩長の討幕派が岩倉具視らと組んで起こしたクーデターの結果、摂政関白・幕府などの旧体制が廃止され、天皇中心の新政治体制が生まれたこと。<参照:「今日の幕末」「王政復古」
おおさかじょうだい
大坂城代
幕府役職。大坂城守護、西国大名の監察などを担当。5〜6万石の譜代大名から選ばれる。
おおしおへいはちろう
大塩平八郎の乱
天保8(1837)年、元大坂町奉行与力で陽明学者の大塩平八郎が貧民救済をかかげて起こした叛乱。一日で鎮圧され、大塩は自決した。(居酒屋に関連投稿があります)




がくしゅういん
学習院
公家の子弟の教育機関として設置され、儒学・国学などが教えられたが、文久3年(1863)年2月に「草莽卑賤」の者の建白を学習院に提出することが許され、志士たちの政治活動の拠点となった。
かんぱく
関白
朝廷の役職。天皇の政務を補佐する朝廷の最有力者で五摂家から選ばれるが、任免には幕府の承認が必要(文久2年末に承認手続きは廃止)で、役職手当てが幕府から支給される。
ぎそう
議奏
朝廷の役職。関白のもとで朝廷内部の執務をする補佐役。武家伝秦と並んで両役という。幕府の承認はいらないが、幕府から役料が支給される。定員は5名。
きょうとしゅごしょく
京都守護職
幕府の役職。文久2(1862)年の幕政改革によって新設され、幕府による京都の守護強化(制圧)を目的とした。江戸の将軍の代理ともいえるポスト。親藩で武力のある会津藩の松平容保が任命された。<参照:「とことん守護職」「守護職とは」
きょうとしょしだい
京都所司代
幕府の役職。朝廷の守護と監察、西国大名の監察などを職掌とする。
きりまい
切米
幕府や大名が、領地(知行地)をもたない家臣に支給した俸禄米。
きんちゅうならびにくげしょはっと
禁中並公家諸法度
幕府の朝廷統制策として、天皇のあり方を現実政治から離した法律。天皇の第一の仕事を芸能や学問とした。
きんもんのせいへん
禁門の政変
(8・18の政変
文久3(1863)年8月18日、公武合体派の薩摩藩・会津藩・中川宮らが、朝廷を牛耳っていた尊攘派(長州勢力)を京都から追放したクーデター。長州藩は御所の門(禁門)の警備を解かれ、三条実美ら長州派公卿(七卿)は都落ちをして長州に逃れた。
きんもんのへん
禁門の変
(蛤御門の変)
元治2(1865)年、8.18の政変で京都を追われた長州藩が池田屋事件をきっかけに京都に派兵し、会津藩・薩摩藩らと御所の蛤門周辺で激戦になって敗北した事変。禁門=禁裏(御所)の門の意味。このとき、長州藩は、御所に向かって発砲したことから朝敵とされ、第一次長州征伐が起こった。
きんりしゅえいそうとく・せっかいぼうぎょしき
禁裏守衛総督・摂海防御指揮
元治1(1864)年、朝命によって一橋慶喜が任命された役職。禁裏(=朝廷)の守護と摂海(=大阪湾)の防衛を担当。
きんりつき
禁裏付

幕府の役職。京都所司代の指揮下、朝廷の役人を監督し、朝廷財政を管理した幕府の役人。旗本から任命。定員2名。

くぎょう
公卿
摂政・関白・太政大臣・左右大臣(=公)、大中納言・参議・三位以上の公家(=卿)。上達目(かんだちめ)ともいう。
げんろどうかい
言路洞開
浪士らの起こす天誅などの事件は、つまり言路がふさがり、下情が上に通じないことによるとして、言路を開こう(意見を陳情する手立てを設ける)とする考え。
こうかいえんりゃくさく
航海遠略策
長州藩の公武合体に基づく開国論。文久2年、藩士長井雅楽の建策により長州藩論となり、朝廷・幕府に嘉納されたが、文久3年、尊攘派が勢力の拡大によって時宜を失い、藩論は破約攘夷論にとってかわられた。雅楽は失脚し、藩命によって無念の切腹を遂げた。<参照:「開国開城」「長州藩の国政進出」 「長州藩論一転」
こうぎせいたいろん
公議政体論
幕府を廃止して、諸藩の代表による衆議の上で政治をするという考え。薩長の武力倒幕(討幕)に対して土佐藩らが主張した。
こうぶがったいろん
公武合体論
朝廷(公)と幕府(武)が協力して政局にあたるという考え。
(ご)かもん
(御)家門
徳川家の一族のうち、御三家・御三卿を除く大名、及び御三家の支族。越前松平家、会津松平家、鳥取池田家など。中でも家康の次男秀康を祖とする越前松平家、及び保科正之(二代将軍秀忠の隠し子)を祖とする会津松平家は格が高かった。
ごくじごようかかり
国事御用掛
朝廷の役職。文久2年12月に設置され、定員29名。国事に関する朝廷への建白を議論した。門閥・官位にこだわらず任命され、近衛関白、青蓮院宮など公武合体派(主として門閥貴族)のほか、三条実美・姉小路公知などの非門閥の尊攘過激派公卿が役に就いた。長州・土佐の後押しする三条らがリードした。
ごくじさんせい・こくじよりうど
国事参政・国事寄人
朝廷の役職。文久3年2月に設置された。参政4名、寄人10名。御用掛と同じ職務だが、そのほとんどを過激派公卿が占めた。
ごけにん
御家人
将軍直属の家臣で御目見え以下。与力・同心などについた。
ごさんきょう
御三卿
徳川宗家の一族で田安・一橋・清水の三家。将軍後継者を出すことを目的に設置された。御三卿は宗家の家族であり、江戸城内に屋敷を構え、領地はもたないが10万石の扶持をもらっていた。幕末では第12代将軍家慶、第15代将軍慶喜が一橋家から出た(慶喜の実家は水戸家)。
ごさんけ
御三家
親藩のうち尾張・紀伊・水戸の三家で大名の中で最高の家格にあたる。将軍の補佐と、将軍の血統が途絶えたときに後継を出すことを目的に設置された。幕末では第14代将軍家茂が紀伊徳川家の出身。
ごしょ
御所
天皇・宮家・公家の居住地。天皇の居住地である禁裏(内構:六門内)と宮家・公家の居住地である築地(外構:九門内)にわかれている。
ごせっけ
五摂家

関白と左大臣・右大臣を出す家柄の大貴族。近衛、九条、二条、一条、鷹司家。有力大名と縁戚のものも多かった。幕末では水戸藩主徳川斉昭の姉が時の関白鷹司政通の妻、薩摩藩主島津斉彬の養女が関白近衛忠熙の妻であった。

<参考文献>らいぶらりの幕末資料をご覧ください。

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