| よくある誤解? |
| よくある誤解? | 史料から判断できること | |
| 1 | 新選組は幕府の組織でその目的はいわば治安維持(警察ともゲシュタポとも) | 一面的な見方:新選組は治安警察をめざして結成されたわけではない。建白書や書簡をみると、当初は尊王攘夷の先鋒となることが目的のだった。また、組織上、守護職会津藩お預りであっても会津藩の家臣ではなく、あくまで浪士集団であった。身分的に幕府との関わりができたのは慶応3年の幕臣(並)取立てで見廻組御雇になったときである。そのときでさえ、幕臣となることに反発して離脱した者、それが果たせず横死したものもいた。伊東ら御陵衛士の分離のきっかけも慶応2年末に幕臣取りたてが内定したことだとされている(幕臣という枠にとらわれず、浪士として自由な政治活動を続けることを選んだのでは) <ヒロ>尊王攘夷の先鋒として結成された集団がいつどのように治安取締目的の集団に変容していったのか、また幕府よりの姿勢を強めていくことになったのか、時代の動き、及び芹沢・山南・伊東ら尊王派(勤王派?)の動きを重ね合わせて検証していきたいと思います。 |
| 2 | 壬生浪士/新選組の「誠」・「尽忠報国」は幕府に対するもの | 一面的な見方。天領の農民出身だった近藤・土方の「誠」は幕府に対するものだったかもしれないが、水戸尊王派系の芹沢・伊東らにとって「誠」は天皇に対するものだったはずである。(参照:『いろはに水戸学』)また、「尽忠報国」は浪士組募集の達文にある言葉であり、この場合の「国」は、一般的に日本国(皇国)を指す。 <ヒロ> むしろ、わたしは、当時、「誠」「精忠」といえば、一般的には(水戸学的に)天皇に対するのものだったと思います。そうでなくても、新選組初期(壬生浪士時代)の実力者は水戸尊攘激派の芹沢でしたから、少なくとも最初はこの「誠」は天皇に対するものだったと考える方が自然だと思います。もちろん、近藤らにも尊王心はあったわけで、異議を唱えるわけもないでしょうし、表面上は芹沢・伊東らと近藤の間に齟齬はなかったはずです。 また、文久3年の浪士組上京時、すでに公武合体派内にも「幕私」という言葉がありました。幕府が公(皇国)のための政治ではなく私政を行っているという見方です。ただし、幕府が私を去り、公論に従った政治を行う限り、「国」は幕府に代表されうるものでした。一方、天領出身の近藤らにとっては朝廷から大政を委任された幕府こそが「国」だったのではと思います。 「国」の政治は公のものであり、幕府の私物ではないという考えを強くもっていったのが伊東であり、あくまでも国=幕府とする近藤と、方向性がずれていったのではと管理人は思っています。 近藤・土方という幕府領の農民が、政治主体として、幕府より朝廷(皇国)を重視する隊士を排除して、最終的に実権を握ったので、新選組はもとから「幕府に誠をつくした」的にみられることが多いのですが、あくまでも結果論だと思います。 |
| 3 | 新選組創設幹部は、天領多摩の武士になりたいの農家の次男・三男の集まり | 間違い。天領の農民層出身は近藤・土方のみ(近藤は上洛前には道場主になって武家の格好をしていたので、純粋な農民は土方だけともいえる)。残りの幹部は下士・郷士・陪臣も含めて武士階層出身である。「武士になる」必要はなかった。 <ヒロ>ちなみに、偶然なのかどうか・・・近藤・土方と対立したり、粛清された幹部は全員武士階級出身(郷士も含めて)です。農民階級出身者と武士階級出身者とは求めるものが合わなかったのかもしれません。幕臣取立てに反発した隊士たちも脱藩者であり、「二君につかえず」というのが反発理由でした。永倉も<今更幕臣になっても>と思ったとされています。 |
| 4 | 「局を脱するを許さず」などの局中法度があった。(脱走は必ず切腹である) | 局中法度:大いに疑問あり。局中法度は子母沢寛の創作の可能性がある。(参照:覚書「局中法度は創作?」) 脱走は必ず切腹:そうとはいえない。脱走しても再入隊し、伍長にとりたてられた者もいる。(ちなみに山南の切腹の後である。山南が脱走が原因で切腹させられたとしたらつじつまがあわない)。(参照:「覚書:山南脱走説に疑義 」) |
| 5 | 新選組の「誠」は近藤や土方が選んだ | 特に根拠はない。 <ヒロ>水戸尊王派の芹沢鴨にとって「誠忠」は基本ともいえる概念であり、むしろ芹沢らが「誠」を選んだとも考えられると思います。近藤・土方らだけが「誠」を通し、彼らに対立・粛清された側は「誠」にそむいたというのはフィクションの構図であって、現実はそんな単純ではなかったのではないでしょうか。ちなみに伊東の号も「誠斎」でした。 |
| 6 | 新選組は1番隊から10番隊まであった | 一時期だけである。人数の変動等により隊の編成は変動。組長も異動があった。 |
| 7 | 新選組の慶応元年夏の編成(10番隊までのもの)は土方がひとりで考案した。 | 特に根拠はない。近藤が考案した可能性、夏の編成で参謀となった伊東の案である可能性もある。 |
| 8 | 新選組が市中暴力を働いたというのは初期の芹沢の悪行のイメージが強いためで、近藤が局長になってからは規律正しくなった | 間違い。そもそも近藤らも芹沢らとともに金策をしている。芹沢暗殺後も強引な金策が続き、市中が迷惑していることが町人記録などにもみられる。 <ヒロ>美化・英雄化をやめて、近藤らの行為の理由をさぐると面白いと思うのですが。わたしは会津藩の財政問題と絡めて追究中です。 |
| 9 | 新選組という名前は、浪士組残留時に、近藤・土方(あるいは隊士みんな)で相談して決めた。 | 間違い。「新選組(新撰組)」の初出史料は文久3年10月の近藤の書簡。それまでは壬生浪士、浪士、精忠浪士などが使われていた。なお、新選組という隊名は、文久3年8月18日の禁門の政変の折りの活動を賞して武家伝奏から拝名したという説(「島田魁日記」)があるが、8月18日以後の公用文でも浪士という言葉が使われている。武家伝奏(つまり朝廷)から拝名したというのもサポートする会津側記録が存在しない。 <ヒロ>ちなみに「新選組」は会津藩の軍制に古くからある隊名で(『志ぐれ草紙』)、こちらの方が隊名の起源としては納得がいくきがします。命名時期は水戸派を排除した後でということですが・・。(水戸藩とつながりのある芹沢は会津藩の軍制から隊名を決めることには反発したと思うので) *8月18日の容保からの内命書が新撰組の初出という説(『新撰組全史』)があるそうですが、内命書の出典が明らかでないので探し中です。みつかったら報告し、必要なら修正しますね。 |
| 10 | 新選組は「撰」が正しい | 断定できない。会津藩庁記録という公的記録ではほとんど「撰」(全部読んだわけではないので断定しません;;)。近藤・土方も初期の書簡は「撰」を使っており、永倉新八、近藤芳助も回想では「撰」。ただし、その近藤・土方らも公式書簡で「選」を使用していることがある。また、島田魁は「選」である。(参照:覚書) <ヒロ> 当時のひとは漢字にはさほどこだわらなかったようです。「撰」がよりすぐりという意味だから新撰組という人がいますが、「選」か「撰」にそれほどの意味があるなら、元隊士もおしなべて「撰」を使ったのではないでしょうか。それを「選」を使ったりしてるわけだから、彼らにとって、深い意味はなかったと思えるのです。 |
| 11 | 新選組といえば浅葱の羽織 | そうとはいえない。池田屋事件以降、羽織の目撃例は記録に残っていない。新選組といえば黒づくめというのが、京の町人の回想にある。ちなみに沖田総司は、浅葱の羽織が嫌いでほとんど着なかったそうである。 <ヒロ>浅黄(浅葱)色は、会津藩の身分制度(羽織の襟と紐を身分により色で分けていた)では最下級の色です。この紐襟制と浅葱の隊服の関係は不明ですが、新選組が会津藩最下級の色を好んでき続けたとはとても思えません。 新選組では最初の1年ほどしか着られなかった隊服でコスプレするのはなぜ??史実の彼らとは離れた姿だと思うのですが・・・。 |
| 12 | 近藤新選組の序列は、近藤・土方・山南の順。 | 誤解。記録に残る序列は近藤・山南・土方である。試衛館時代、上洛中、壬生浪士時代、新選組時代と、山南は一貫して、土方より序列が上。土方が名実ともにNO2となったのは山南の切腹後のことである。ただし近藤と個人的な友人である土方が上位者である山南を追い越し、山南の死の前には実質的なNO2となっていた可能性はある。 <ヒロ>司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」以降の土方人気からか、同作品を模倣して土方を最初から新選組のNO2に据えているフィクションが多い気がします。山南をおしのけてのしあがっていった土方やそれにともなう人間関係の変化なども面白いと思うんですが・・・あまのじゃく? |
| 13 | 沖田は新選組の中では土方を一番慕っており、兄事していた。土方も沖田を心の支えにしていた。 |
近藤・沖田、山南・沖田、近藤・土方の強い絆を示唆する同時代史料(本人の書簡等を含め)や回想録・回想談・逸話は残っているが、土方・沖田については全くないといっていい。(「沖田をめぐる人」もごらんください) <ヒロ>司馬作品の土方・沖田の特別な絆は司馬さんのオリジナルです。先入観にこだわりすぎるのは、沖田という不可解な人物を想像するときの足かせではと思ったりします^^。 |
| 14 | 伊東「甲子太郎」は「きねたろう」、「山南」敬介は「やまなみ」、沖田「総司」は「そうし」と読む。 | 「きねたろう」:間違い(>_<)。伊東の名前は「かしたろう」が正解。これは、油小路事件のときの同時代史料に「樫(かし)太郎」と記したものがあって、読みかたがわかる。 「やまなみ」:断定できない。山南は「さんなん」とも「やまなみ」とも読むが、山南敬介は「やまなみ」とされることが多い。その根拠は子母沢の作品に「正式にはやまなみといったが、さんなんと呼ばれていた」という篠原秦之進の遺談とされる記述によるが、始末記は資料ではなく、創作も混じった読み物(始末記が史実どおりでないことは、現在では定説)であり、根拠が希薄である上、他の史料の裏づけもない。一方、山南敬介を「三男」、「三南」と記した同時代記録・回想録が複数あり、通常、「さんなん」と呼ばれていたことは間違いない。 <ヒロ>どちらが正しいにせよ、まわりから「さんなんさん」と呼ばれていたことを大事にして、わたしは「さんなん」と呼んでいます^^。 「そうし」:間違い。そうじが正しい。本人が総二と記した書簡がある。 |
| 15 | 試衛館関係メンバーは一枚岩の仲良しグループだった | 間違い。試衛館関係メンバー(近藤・山南・土方・沖田・永倉・原田・井上・藤堂・斎藤)は利害が対立し、不協和音の目立つ集団である。 同志を家臣扱いするようになった近藤に不満をもった永倉・原田・斎藤は他の隊士を煽動して、近藤批判上書を会津藩主松平容保に提出(近藤の切腹か自分たちの切腹かという厳しい内容)、容保の手打ちで収まったものの、上書メンバーの平隊士一名は切腹し、幹部の永倉らは謹慎を受けた。山南・土方、あるいは近藤・山南も激しく対立し、山南の謎の切腹につながった。藤堂は近藤に飽きたらず、師匠の伊東を新選組に誘い、伊東の新選組分離に同行し、かつての仲間に殺害された。永倉・原田は、甲州鎮撫隊敗戦後、近藤・土方への不信感が臨界点を越え、袂を分った。 <ヒロ>上にも書きましたが、近藤らと対立したひとたちは、山南・永倉・原田・斎藤・藤堂、みな武士階層(並)出身でした。漫画やドラマでの仲良しぶりは楽しいですが、あまりにも多いですねえ・・・こういう、史実にそった人間関係が複雑な虚構も面白いと思うのですが・・・。 |
明らかな間違いはご指摘くださるとありがたいです。
反論は根拠となる資料を明記した上で「居酒屋ばくまつ」の方へ御願いいたします。
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