| 新選組よくある誤解? 浪士組/新選組トップ |
| よくある誤解? | 史料から判断できること | |
| 1 | 新選組は古高の拷問により、倒幕派の「京都放火&天皇奪取計画」を初めてつかんだ。倒幕浪士を殺害・捕縛した池田屋事件は京都を火の海になることから救った。 | 放火計画:「京都に放火して天皇を奪取」という計画の噂は文久3年からすでに流れており、新選組が古高の拷問によって初めてつかんだ情報ではない。また、「天皇奪取」はともかく、「京都放火計画」の存在は幕府側の史料にしかないそうで、当時、長州の桂小五郎が同志に宛てた書簡には放火計画を「虚説」としているものも存在するそうである。このため、「長州の放火計画」は幕府側が尊王派びいきの公家や町人に対して尊王派のイメージ・ダウンや弾圧の正当化のために流したデマであるという見方が学者の中にある。 池田屋事件は京都の火事を防いだか: 池田屋事件後に起った禁門の変では、会津・薩摩も京都の町屋に大砲を打ち込んで、火事(どんどん焼け)を引き起こしている。 |
| 2 | 病人が多いため、出動はわずか30人程度だった。(故郷宛の近藤勇書簡による) | 同時代の第三者の記録では、芹沢鴨のいた文久3年時代、隊士は60名を超えていたが、近藤が実権を握って以来、大量に脱走者が出て、この年6の月には、すでに48名までに減少している(脱走者の続出は近藤の専横・また敵対者を消すというやり方に反発したことが原因だともいう)。 しかも池田屋事件直前に8名の脱走者が出て、池田屋当日の総隊士は40名でしかなかった。出動人数は34名なので屯所残留は6名。当日、屯所には古高俊太郎がおり、志士たちによる古高奪還に備えて警備に人数を割くことも必要だった(実際、屯所襲撃計画があった)。6名の中には病人もいたかもしれないが、近藤の「病人が多くて30名ほどしか出動できなかった」という説明は大袈裟である。 近藤が権力を握って以来、脱走により隊士の数が激減した不名誉を隠蔽するための誇張・あるいはまったくの言い訳という見方もある。 |
| 3 | 池田屋と四国屋の二手に分かれて探索に向かった(上記近藤勇書簡による) | 新選組は、会津候からの命令で三手(四条方面が近藤組(10人)、祇園方面が土方組(12人)と井上組(12人)に別れて御用改めを行った。このことを示す近藤の書簡が残っている。また、当日、浪士の集結場所は不明だったので池田屋と四国屋を目指すのは不可能。近藤組も探索開始から池田屋にいたるまで約3時間かかっている。 |
| 4 | 山崎丞が薬屋に変装して池田屋に潜入し、内側から鍵を開けた。 | 池田屋が集結場所かどうかは不明だったので池田屋に潜入することは不可能である。また、山崎は報奨金リストに名がなく、当日は、屯所残留組だったと推定される。 |
| 5 | 池田屋に乗り込んだのは近藤・沖田・永倉・藤堂・周平の5名。(上記近藤勇書簡による) |
左説は近藤書簡によるが、池田屋事件の報奨金リストから、池田屋を改めたのは近藤・沖田・永倉・藤堂・武田・浅野・谷、そして戦死した安藤・新田・奥沢の合計10名と推定される。周平は、土方組に配属されていた様子である。 故郷に戦果を誇るため、実際より少ない人数で乗り込んだように描写し、その際、故郷の人々にとって既知の3人&養子にした周平を売り込むために周平をメンバーに入れたという見方がある。 |
| 6 | 近藤が最初に志士を斬った。 | 近藤とともに踏み込んだ永倉の手記(『報国記事』)によれば、最初に志士を斬ったのは近藤ではなく、沖田である(沖田が誰を斬ったかは書かれていない)。また、近藤に最初に斬られたとされる北添にの死に方にも異説がある。 <ヒロ>結局、誰が誰を斬ったのかは定かではないようです。 |
| 7 | 沖田総司が喀血して倒れた。 | 永倉の手記によれば、途中、病で昏倒し、外に出された。喀血したかどうかは記録にない。 |
| 8 | 四国屋に浪士がいなかったので土方は、急ぎ池田屋に向かい、近藤らを助けた。 | 永倉の手記によれば、池田屋に駆けつけたのは井上組の10名である。報奨金リストからも裏付けられる。研ぎ師の記録(子母沢寛のノートにあったという)によれば、当日の土方の刀剣には損傷がなく、駆けつけたとしても、捕物が収束に近づいてからのことだと推測できる。 |
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