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かけあし事件簿 文久3年


浪士募集の幕命 文久3年1月7日(1863年2月24日)
松平主税助は幕府から「浪士共のうち有志の輩御集に相成り、一方の御固め仰せ付けられるべく候」と浪士募集の幕命を受けた。主税助は鵜殿鳩翁とともに浪士募集の文書を発し、石坂周造・池田徳太郎らを各地に派遣して募集を行った。(主税助は2月4日に職を辞している)
近藤勇ら、浪士組に応募する 文久3年1月中旬
近藤勇、山南敬介、沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、土方歳三らも浪士組に応募した。この頃、芹沢鴨・平山五郎・平間重助・新見錦らも応募したとみられる。
浪士組出立 文久3年2月8日(1863年3月28日)
5日、浪士組の編成が伝通院で発表された。総勢約230名である。清河の同志、石坂周造、村上俊五郎、斎藤熊太郎らは道中目付けとなった。壬生浪士組関係者では、近藤勇が先番宿割、芹沢鴨が小頭でその下に沖田、山南、永倉、野口、原田、土方、藤堂、平間が、新見錦の組に井上源三郎が配された。8日、浪士組は江戸を出立し、中仙道を通って京都へ向った。途中、芹沢はトラブルを起こし、小頭職を近藤に譲っている。
浪士組上洛・清河の演説 文久3年2月23日(1863年4月10日)
浪士組約230名が江戸から京に到着し、壬生村に分宿した。後の新選組幹部となる芹沢鴨・近藤勇ら13名は郷士八木源三郎方に宿泊した。この浪士組上洛の目的は、翌3月初めに攘夷を本旨として上洛する将軍家茂の警護であった。当時、京は尊攘浪士による天誅が頻発していたからである。

浪士清河八郎の献策によるものだったが、彼の真意は将軍警護ではなく、浪士組を尊王の兵・攘夷の魁とすることであった。清河は、入京した日の夜半に浪士幹部を新徳寺に集め、尊皇攘夷の演説を行って彼らの同意を取り付けると、翌24日、朝廷に尊王攘夷の上書を提出した。29日には、浪士たちは再度、新徳寺に集合し、将軍警衛を果たさずに東帰をすることについて議論した。大評定になったという。

<詳しく>文久3年2月23日‐浪士組、入京文久3年2月24日‐清河八郎、学習院に献言書提出文久3年2月29日‐浪士組、東帰を激論
浪士組に東帰の命が下る文久3年3月3日(4月20日)
浪士組は朝廷から攘夷のための東帰の命を受けた。将軍上洛の前日であった。

清河主導の東帰に反発した浪士もおり、浪士組取締役の鵜殿鳩翁は、浪士の殿内義雄と家里次男に残留希望者を募るよう命じた。10日(27日)、残留浪士差配は、幕命によって京都守護職会津候に命ぜられた。芹沢・近藤ら17名は、同日、残留願いを会津候に提出した。

<詳しく>◇文久3年3月8日‐浪士組の東帰が順延文久3年3月9日‐浪士組の東帰再度順延文久3年3月10日‐会津候、浪士差配を命ぜられる
芦沢・近藤らの清河暗殺計画文久3年3月上旬
会津候に残留願いを出したのに前後し、芹沢・近藤ら17名のうち、13名が清河一派の6名を殺害しようと図ったが、折悪しく果たせなかった(暗殺は会津侯からの指令で待ち伏せをしたが、清河一行が御朱印を持っていたため、断念したともいう)。
浪士組の東帰文久3年3月13日(4月30日)
浪士組本隊は一部の残留組を残し、京を出立した。わずか3週間の滞在だった。|もうすこし詳しく|
残留浪士ら24名、京都守護職お預かりに文久3年3月15日(5月2日)
芹沢・近藤ら17名の連署メンバー、及び殿内義雄・家里伝次郎ら7名の残留浪士ら24名が、正式に京都守護職会津候お預かりとなった。壬生に屯所を置いたため、後に「壬生浪士組」と称するようになった(彼らの別称は「壬生浪士」を縮めた「壬生(みぶろ)」であり、「壬生」というのは後世の創作)。(詳しく:文久3年3月15日‐残留浪士、正式に会津藩預に

浪士組誕生直後から、芹沢・近藤系と殿内・家里系の主導権争いが起り、少数派の殿内は近藤らに暗殺され、家里は詰め腹を切らされた。殿内系残りの5名も京を脱出した。このため、壬生浪士結成メンバーというときは連署の17名を指すことが多い。このうち、芹沢系5名、近藤系8名。この13名は全員が幹部となった。(永倉新八はこの13名を壬生浪士組結成メンバーとしている)。
近藤ら、殿内義雄を暗殺文久3年3月25日(5月12日)夜
近藤らは対立する殿内派6名の中心人物、殿内を四条橋で殺害した。殺害を故郷に知らせる近藤の書簡が残っている。実行犯は不明。

なお、この日の昼間に芹沢・近藤ら17名と会津藩士本多が壬生狂言を見物した。このとき、全員が、新しくあつらえた同色の紋付きを着ていたという。(詳しく:文久3年3月25日‐会津藩士、壬生の残留浪士と壬生狂言見物・殿内暗殺文久3年3月26日‐残留浪士近藤、「志大略相認書」を故郷に送る)
芹沢・近藤ら、大阪豪商押し借り文久3年4月2日(5月19日)
芹沢・近藤ら7名が下阪し、大阪の平野屋で攘夷と国事周旋雑費として100両を借用した。同時期に大阪の鴻池から、隊服用として200両を借用したともいう。(三つ下↓)。|もうすこし詳しく|
江戸で清河八郎暗殺文久3年4月13日 (5月30日)
東帰後、清河は攘夷活動を画策したが、幕府の手により暗殺された。(東帰浪士組は、以後、新徴組として庄内藩お預かりとなった)。(詳しく:文久3年4月13日‐江戸で清河八郎暗殺
会津候臨席の上覧試合文久3年4月16日 (6月2日)
会津候に剣術・柔術・棒術の武芸を見せる上覧試合が行われる。近藤・芹沢・新見以外の全隊士が参加した。このほど発見された土方の日記に記されていた。(詳しく:文久3年4月16日‐会津侯の上覧試合
近藤の「天狗」により壬生浪士分裂の危機文久3年4月17日 (6月3日)
山南・土方・沖田・井上・斎藤が、上洛中の八王子千人同心井上松五郎(井上の実兄)と壬生で内談。近藤が天狗になったため、内部分裂が懸念されるというのが相談の内容。20日にも土方・井上が松五郎を訪問している。(詳しく:文久3年4月10日‐芹沢と近藤らの志の差が問題化文久3年4月17日-浪士組近藤の増長「水会の利一存ん」
将軍下阪の警護文久3年4月21日(6月6日)〜5月11日(6月26日)
京に滞在する将軍の下阪警護を願い出ていた、壬生浪士組(総員20数名)は、警護の一列に加われることになった。壬生浪士は、将軍が帰京するまで約3週間在阪し、帰路の護衛にも加わった。この将軍警護時に隊服らしきお揃いの羽織姿が目撃されている。(詳しく:文久3年3月22日‐芹沢・近藤ら、老中板倉勝静に将軍滞京の直訴文久3年4月21日‐将軍家茂、大阪湾巡視のため退京して大坂城へ/壬生浪士下坂・警衛

下阪中のに殿内系の家里次男を見つけ、詰め腹を切らせて殺害している。(残留浪士非主流派家里次郎、切腹
壬生浪士9名、大坂力士と乱闘文久3年6月3日 (7月18日)
大坂に出没する浪士捕縛のために6月2日に下阪した芦沢・近藤ら壬生浪士組9名は、翌日、浪士2名を捕縛した。その後、宿舎に残った近藤を除く8名で夕涼みに出かけるが、そこで大阪力士とトラブルになった。北新地の茶屋に引き上げたところを夜半に力士たちが8角棒を持って襲来し、乱闘となった。(詳しく:6月日-壬生浪士、大坂力士乱闘事件8月7日‐壬生浪士、祇園北林で相撲興行を行う,8月9日‐壬生浪士、京都の力士に小結を殺害させる)
浪士石塚岩雄を鳩首文久3年7月2日 (8月15日)
壬生浪士を詐称して押し借りをし、道頓堀の旅館升市に滞在していた石塚を、壬生浪士2〜3名が取押え、八軒屋の宿舎に連れ帰って殺害。天神橋に鳩首した。(詳しく:壬生浪士、石塚岩雄を鳩首

2日後の7月4日に、芹沢・近藤が鴻池で合計230両の金策を行っており、壬生浪士何名かが金策のため下阪中だったと推定される。
芹沢、大和屋焼き討ち文久3年8月12日(9月24日)
芹沢は、壬生浪士組総勢の半数を超える35名を連れて生糸問屋大和屋の土蔵を焼き討ちした。火消しも近づけず、町奉行が会津藩に出兵を要請するほどの大騒ぎとなった。御用金を申しつけるが主人不在を理由に断られて激怒したとも、生糸買い占めや異国との貿易等への「天誅」とも。
(関連:「徒然に」大和屋事件の不思議8月10日‐壬生浪士、佐伯又三郎殺害(久坂玄瑞による殺害説あり)
禁門の政変に出動・新選組拝名 文久3年8月18日(9月30日)
御所において長州勢力が一掃される禁門の政変(8.18の政変)が起る。会津藩から御所警備を命じられた壬生浪士組は52名が出動。この働きにより、浪士組は武家伝送から「新選組」を拝名した。また、21日には、会津侯より京都市中見廻りを正式に命じられた(拝名と同日ともいう)。この後、新選組は、長州藩桂小五郎等の退京、平野国臣の捕縛(逃走される)などに出動する。(詳しく:8月21日‐壬生浪士、市中見廻りに任ぜられる/会桑・壬生浪士、桂小五郎追放に出動
筆頭局長芹沢と平山五郎、暗殺される 文久3年9月18日(10月30日)
泥酔して就寝中の芹沢一派が近藤系の幹部4〜5名に襲撃された。芦沢、及び平山五郎は斬殺されるが、平間重助は逃亡。その数日前に芹沢の右腕といわれた新見は詰め腹を切らされており、また、2ヶ月後に一派の残党・野口健司も切腹し(殺害説もある)、芹沢派は壊滅した。芦沢と近藤には尊皇と佐幕という思想の差があった。暗殺は大和屋焼き討ち事件に業を煮やした会津候の内命ともいう。芹沢の死後、近藤が唯一の局長として新選組の実権を握る。(関連:文久3年9月13日‐田中伊織(新見錦と同一?)暗殺9月18日‐芹沢鴨暗殺9月20日‐壬生浪士芹沢・平山の葬儀
新選組、長州間者殺害文久3年9月26日(11月17日)
禁門の政変で京都を退去させられた長州勢が新選組に4人の間者(御蔵・荒木田・松井・越後)を送り込んできた。これを察知した新選組は、御蔵・荒木田を前川邸屯所で殺害する。残りの松井・越後は逃走した。このほか、楠小十郎という少年も間者として殺害された。(詳しく:新選組、長州の間者を殺害
新選組近藤体制確立文久3年12月28日(1864年2月5日)頃
芹沢派の残党野口が切腹した(原田左之助による殺害説あり)。理由は不明である。(文久3年12月28日 芹沢一派生き残り、野口健司の死)

この後、局長=近藤、総長(筆頭副長)=山南、副長=土方という新体制が敷かれた。

山南=総長について記した史料は壬生浪士始末記しかなく、同史料でも、その後の記述では山南=副長としている。総長職のTORも不明。|もうすこし詳しく|


*文久3年(1863.2.18〜1864.2.7)*


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