最終更新日:2000年2月27日
光縁寺-山南敬介・松原忠司ら内部粛正された隊士の墓所
<場所:綾小路通大宮西入四条大宮町37>
| 光縁寺の過去張には文久3年12月27日の野口健司から慶応3年12月8日の宮川延吉まで合計25名の新選組関係者(一橋家臣の大石造酒蔵を含む)の埋葬が記録されているそうです。そのうち9名は墓碑に名前が刻まれていません(伊東甲子太郎・藤堂平助・服部武雄・篠原泰之進ら高台寺党メンバーは新選組によって暗殺された後、光縁寺に埋葬されましたが、鳥羽伏見の戦いで新選組が退京した後、生き残りの同志の手によって東山戒光寺に回葬されました。そのとき、茨木司・佐野七五三之助・ら幕臣取り立てに反発して新選組脱退を申し出、会津藩邸で殺害された4名も、彼らの同志としてともに改葬されました)。新選組関係者の墓碑は3基(1基は大石のもの)あり、往時は土台石が三重にあったといいます(ちょうど戒光寺の伊東の墓のようなものなのでしょうか)。 光縁寺は壬生から少し離れていますが、新選組関係者の墓所とされた理由として、寺の紋である「丸に右離れ三つ葉立ち葵」が山南敬介の紋と同じであり、その山南敬介の縁から光縁寺が壬生寺の墓所になったのではないかという説があります(光縁寺パンフレットより)。 (写真は2000年1月1日)
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| 光縁寺の本堂には新選組全隊士の慰霊のための壇が設けられていますのでそちらもお参りしてみられてはいかがでしょうか。また、本堂には貴重な絶版本などを含めた新選組関係の資料本や小説もあります。光縁寺の方が用意された墓参ノートもあり、追悼の気持ちを記すことができます。 光縁寺の墓参ノートでショックを受けたこと 光縁寺は商業化されておらず、本堂はいつも静かで、心を落ち着けて記帳をできて好きなのです。しかし、この墓参ノートでかなり不愉快、不愉快を越して、あまりのことに涙が出て来るような書きこみをみたことがあります。書きこみというより、B4サイズの土方歳三らぶの漫画同人誌の宣伝ちらしが、ノートの見開きにでかでかと貼ってあったんです。大きく描かれたイラストは土方歳三でした。わたしと同じように怒りを覚えた方が、その宣伝ちらしの上に抗議の書きこみ(ちょっと乱暴な書きぶり)をされていたら、それに対して「ひど〜い。なにをしようとその人の自由!」という応答の書きこみがいくつもあり、それを読んで、すっかり脱力してしまい、ノートを閉じてしまいました(T_T)。 自由というのは何をしてもいいということでしょうか。自律のない自由は単なる自分勝手ではないのでしょうか。 壬生のノートは個人のノートが何冊も置いてあるものですし、読みたくなければ読まないという選択があります。しかし、光縁寺のノートはご本堂に置いてあるものでしかも一冊ですから、いやおうでも目にはいります(それを狙っての宣伝なのでしょうが)。しかも、光縁寺は土方に壮絶な恨みをもって亡くなったとされる山南・松原・河合の墓所でもあります。観光化した壬生寺とちがって光縁寺までわざわざ墓参にくる人には彼らのファンも多いし、純粋に彼らを追悼にきている人間も多いはずです(わたしはそのひとりです)。土方にいい感情をもっていないファンだって来ているでしょう。墓参ノートにおける宣伝行為も不愉快でしたが、死者と彼らを大切に思ってお参りするファンへの配慮の欠けた心無い所業が大変ショックでした・・・。 (もし伊東ファンが土方さんの墓前に心無いことをしているのをみたら、同じようにショックですし憤りを感じます。土方ファンの方を攻撃しているわけでも、同人活動を否定しているわけでもありませんので、誤解のないようお願いいたしますねm(__)m) このことについてコメントがおありのときは居酒屋さきがけの方へお願いいたします。 |