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文久3年★数え34歳

幕府、「尽忠報国」の浪士募集/文久3年1月7日(1863年2月24日)
幕府は浪士取扱役松平主税介に、「御変革」の一環として、有志に「一方の御固め」を任せるため、「尽忠報国の志」を持つ浪士の募集を命じた。(★)
芹沢鴨、浪士組に参加/文久3年1月?
★文久3年1月下旬以降に宮本辰之助が草野剛三に伝えたとされるところによれば、<幣藩の中納言殿においても上洛をされる訳である。水戸の獄に下っていた者は悉く大赦の令によって出た。新見錦・芹沢鴨などという者は東禅寺事件(水戸の尊攘激派による英国公使襲撃事件)に連座していて斬首になるくらいのところを、今度の大赦で許された。既に江戸に行って伝通院の有志の者と謀っているところである>という。(草野剛三『史談会速記録』)

★水戸天狗党(=尊攘激派)の下村継次は潮来で部下を殺害したところから逮捕され、江戸の幕府評定所の処分で入牢させられていたが、武田耕雲斎の助命、また清河八郎の献策による大赦令により、出獄。その後芹沢鴨に改名し、天狗党の同志とともに浪士組に参加したという。(永倉新八の晩年の話をもとにまとめた読み物『新撰組顛末記』

<ヒロ>
宮本は水戸藩尊攘激派の中心の一人、住谷寅之助の弟です(住谷・宮本らのプロフィールはこちら)。この発言からは、(1)彼らが清河らを「有志」だとみなしていること、また、(2)芹沢鴨らは彼らの同志であり、浪士組募集に応じて、清河と気脈を通じていたこと、がうかがえます。 実は、住谷も宮本も浪士組結成の黒幕である清河八郎と係りのある人物なのです。清河は、文久2年の寺田屋事件で京都挙兵が失敗した後、東下し、閏8月に水戸に入っています。そのとき、住谷・下野隼次郎・山口徳之進らと知り合い、その後何度も会合をもっています。特に住谷は、清河が認めた松平春嶽への建白書を預かって江戸の山岡鉄舟に届けたこともありました(こちら)

芹沢らが釈放されたという「大赦」は、前年末(文久2年12月26日)に、水戸藩主慶篤が戊午の密勅降下事件に関係して処罰された激派を赦免した件を指しているのではないかと思います(こちら)。芹沢は釈放されたとはいえ、身分は藩士ではありませんから、藩主に随行して上京することは許されず、上京手段として浪士組に加わることになったのではないでしょうか。(万延元年8月に薩摩藩に攘夷先鋒の上書をもって駆け込んだ水戸藩激派も赦免されましたが、慶篤に随行することが許されず、3月初め、長州藩伊藤俊輔に依頼して、長州藩士として入京しています)。もしかしたら、芹沢に清河らを紹介したのも住谷らだったのかもしれません。浪士組内に水戸尊攘激派の同志がいることは、住谷らにとっても好都合だったことでしょうから。

なお、東禅寺事件の襲撃メンバーは諸資料に記録されていますが、この中に新見錦・芹沢鴨の名前は探すことができません。もしかすると草野剛三の記憶違いではと考えています。

一方、芹沢=下村説ですが、芹沢のトップにも書きましたが、文久元年末に攘夷の先鋒として横浜焼き討ちを計画して屯集した水戸藩激派(玉造勢)に下村継次という神官がいます(『水戸藩尊王志士略伝』)。玉造勢は水戸藩庁の勅諚返納に反対して長岡に屯集した激派(長岡勢)の残党です。玉造勢の下村は『尊王志士略伝』では捕縛されて処刑されたことになっていますが、芹沢と同一人物なら処刑は誤聞となります。実際、『天保明治見聞実記』では、文久2年には水戸の細谷獄で生存しており、9月の赦免案では、引廻しの上斬罪のところを牢屋敷にて斬罪・梟首とされています。その後は明確にはわかりません。水戸藩の政局を考えると9月以降に激派が斬罪になるとは思えないのですが、釈放されたとしたら、芹沢=下村説の信憑性が高くなる気がします。探求中です。

(もちろん、芹沢が下村の姓名を借りたという可能性も否定できませんけれど)。

管理人は、芹沢一派の浪士組参加は、水戸藩主慶篤に相前後して上京する水戸激派(のち本国寺党)との連携であり、さらに水戸激派は長州藩激派と連携していたのだと考えています。「覚書」に整理中ですのでお待ちくださいね。

関連:水戸藩かけあし事件簿
浪士組江戸出立/文久3年2月8日(1863年3月26日)
将軍家茂の上洛に先立ち、「一方の御固め」を任せるために幕府が「尽忠報国」の士を募集してできた浪士組約230名が江戸を出発した。芹沢は同志の新見・平山・野口・平間とともに参加した。浪士組は七番組編成で、一組を小頭2〜3人がまとめた。芹沢は、新見と並んで三番組小頭を命ぜられた。芹沢の組下には同志の平山・野口・平間のほか、山南・沖田・永倉・原田・土方・藤堂の6名が配属された。新見の下には、井上源三郎・沖田林太郎(沖田の義兄)が含まれている。(近藤は一行の宿手配係である)。
芹沢、小頭罷免・取締役付に/文久3年2月19日(1863年4月6日)
★芹沢は三番隊の小頭であったが、上洛中の本庄宿において、先番宿割の近藤勇、及び池田徳太郎の手違いで芹沢鴨の宿が取り忘れられた。これに激昂した芹沢は暖をとると称して焚火をたくという。さらに芹沢は三番隊小頭が不満で、勝手に一番隊小頭になってしまったが、道中世話役の山岡鉄太郎らに諭され、浪士取扱鵜殿鳩翁付となった。芹沢の後は、山南が小頭を務めた。(『新撰組顛末記』)

★浪士組が本庄に宿泊したのは2月9日である。15日の奈良井宿において、「火の用心」の廻状が各組隊長(小頭)宛に回っている(いずれも『廻状留』-『新選組日誌』中の引用より)。

★芹沢は17日に三番組小頭を免ぜられ、19日には取締役付となった。(いずれも『廻状留』-『新選組日誌』中の引用部分より)

<ヒロ>
焚火事件は永倉の回想を基にした読み物の『顛末記』に記されているのみ。街道史に詳しいゲストの方によるとこの時期、本庄は突風が激しく、小さな焚き火でも大火事になってしまうそうで、火の用心にはことさら厳しかったそう。だから、本庄での焚き火事件はありえないとのこと。
浪士組入京〜残留決意/文久3年2月23日(1863年4月10日)
浪士組は京に到着し、壬生村に分宿した。浪士組上洛は清河八郎の献策によるものだったが、清河の真意は浪士組を勤王の兵・攘夷の魁とすることであった。清河は上洛後、朝廷に働きかけ、3月3日、攘夷実行のために浪士組東帰の命令が出た。将軍上洛の前日だったが、東帰を望まない浪士もいた。10日、京都守護職会津藩主松平容保に浪士差配が命じられ、京都残留を決意していた芹沢・近藤ら上洛浪士15名及び斎藤・佐伯の計17名は、同日、連名の残留願いを会津候に提出し、東帰組の京都出立前日の12日に差配が認められた。

★芹沢は瘡ができて悩んでいたのと、水戸藩の同志が本国寺に残っているのでもう少し京都にいたいということだった。また、山口(徳之進)も芹沢は病気でもあるし、残したほうがいいという意見もあり、残すことにした。(草野剛三『史談会速記録』)

<ヒロ>
「水戸藩の同志」はもちろん山口ら水戸尊攘激派(本国寺党)のことでしょう。芹沢が、同志が残っているから残りたいと言い、山口も芹沢を残した方がよいと言ったという証言など・・・あまり紹介されませんよね・・・なぜでしょうか。

関連:
◇文久3年2月23日 −浪士組、入京。清河八郎、朝廷への建白を提案/ 2月24日 (1−清河、朝廷に尊王攘夷の建白書提出 2月29日−浪士組に攘夷の勅諚が下る。浪士組、攘夷のための東帰を激論 2月30日−浪士組、東帰・攘夷を命じるようにと学習院に上書を提出 3月8日−浪士組の東帰が順延される 3月9日−浪士組の東帰再度順延 3月10日 −会津候松平容保、浪士差配を命ぜられる/芹沢・近藤ら残留浪士17名、会津藩に嘆願書提出 3月12日-残留浪士組、会津藩お預りが聞き届けられる? 3月13日−東帰浪士、江戸に向けて出立
芹沢・近藤ら13名、清河暗殺未遂/文久3年3月上旬
★会津候から清河暗殺の内命があり、彼らは清河らを二手に分かれて待ち伏せした。芹沢・新見・山南・平山・藤堂・野口・平間の7名と近藤・土方・沖田・永倉・井上・原田の6名である。芹沢組の前を清河が通りかかったが、同行の山岡がご朱印をもっていたため芹沢は斬るのをためらい見逃したという。(『新撰組顛末記』)

<ヒロ>
清河の主導する浪士組は13日に京を発ったので、この事件はそれ以前のこととなります。近藤とともに上洛した7名のうち、芹沢派5名と同行したのは、尊王派の山南・藤堂の2名。芹沢組に配属されたメンバーは、後に、近藤との路線対立により、7名全員が暗殺・切腹・殺害・逃走という結果を迎えています。(永倉の記憶の組合せが正しいと仮定して、これは偶然か、それとも山南・藤堂は思想信条の面から実は芹沢派と近かったともいえるのでしょうか・・・)。

ところで、在京水戸激派(本国寺党)とつながっている芹沢が、清河の暗殺に本気になっていたかどうかは疑わしいとことろだと思います。山岡が御朱印状をもっていたからというのは言い訳かもしれません。
残留浪士ら24名、京都守護職お預かりとなる文久3年3月15日(5月2日)
残留浪士は京都守護職会津候お預かりとなり、壬生浪士組と称した。幹部中芹沢系6名、近藤系8名。屯所を壬生に置いたため、後に壬生浪士組と称した。

関連:
◇文久3年3月15日−残留浪士、正式に会津藩預に
壬生浪士、大阪平野屋で押し借り/文久3年4月2日(5月19日)
★芹沢・近藤・新見・土方・沖田・永倉・野口が大阪平野屋で、尽忠報国の雑費を100両を押借りした。(『風窓紀聞』-『新選組日誌』中の引用箇所より)

<ヒロ>
『顛末記』では、4月上旬頃に隊服調達費として大阪鴻池から200両を押借りしたとしていますが、大阪鴻池での200両の金策は7月である。『顛末記』の基となる回想を語った晩年の永倉が両件を混同したのではないかという見方もできると思います。
芹沢と近藤らの志の差が問題化/文久3年4月10日(5月27日)
芹沢と近藤らの志の差が明らかになり、問題となってきた・・・。

<ヒロ>
芹沢らと近藤の主義の違いとは、(尊王は前提として)幕府に忠誠を誓うか天皇に直接忠誠を誓うかの違いであるといわれています。(田尻佐『史談会速記録』)。わたしはこの背景には水戸藩と会津藩の陰がある気がしています(探究中です)。

関連:文久3年4月10日−残留浪士芹沢と近藤らの志の差が問題化/ 4月16日−会津侯の浪士組上覧試合 4月17日−浪士組近藤の「天狗」「水会利一存んの意図に」
大坂力士と乱闘/文久3年6月3日(7月18日)
大坂に出没する浪士取り締りのために下阪した新選組9名(近藤・芹沢・山南・沖田・永倉・斎藤・島田・平山・野口)は、翌日、浪士2名を捕縛した。その後、宿舎に残った近藤を除く8名で夕涼みに出かけるが、大阪力士とトラブルになった。北新地の茶屋に引き上げたところを夜半に力士たち数十名が8角棒を持って襲来し、乱闘となる。その結果、力士は3〜4名が死に、負傷者が多数出た。

★永倉は沖田とともに一人の力士を斬殺し、二人に傷を負わせるという。(『新撰組(壬生浪士)始末記』)
★永倉はこのとき島田魁のふった刀の先でけがをしたという。(『新選組顛末記』)


<ヒロ>
この件について老中小笠原長行の率兵上洛が微妙に絡んでいるのではないかと推測しています。→「徒然」「大坂力士乱闘事件と小笠原率兵上洛?

関連:
「今日」文久3年6月2日−壬生浪士10名、浪士捕縛のため下坂 6月3日 壬生浪士、大坂力士乱闘事件。
芹沢・近藤、大阪鴻池で金策/文久3年7月4日(8月17日)
★芹沢・近藤の両名が武器料として合計230両の金策をする。(『鴻池善右衛門』-『新選組日誌』の引用箇所より)

<ヒロ>
借用と書かれていないので金策ではなく、進呈されたものとの見方もできます。さらに、山南・土方が鴻池に押し借りをしていた浪士を討取った事件(『両雄士伝』)の謝礼と関連づける見方もあります。
芹沢を怒らせ?長州出身の佐伯又三郎殺害される(疑問あり)/文久3年8月10日(9月22日)
長州出身だという壬生浪士佐伯又三郎が殺害されました。佐伯の殺害理由には(1)長州の間者だったが久坂玄瑞に殺害された、(2)芹沢鴨を怒らせて殺された、の2説あります。

詳細:8月10日−壬生浪士、佐伯又三郎殺害(久坂玄瑞による殺害説あり)

<ヒロ>
佐伯は芹沢派だったとされています。その芹沢鴨に殺されたというのは子母沢寛の『新選組遺聞』の八木老人昔話が出典で、わたしは積極的に信じる気にはなれません。子母沢の新選組三部作は聞き書き形式をとっていてもフィクションが多く混じっているからです(新選組マニアの中ではよく知られていることですが)。

西本願寺侍臣西村兼文による長州間者説ですが、新選組本では、間者とするには佐伯の合流時期が早すぎる(3月10日以前)・・・とされていることがあります。

ほんとうに早すぎるでしょうか。佐伯に長州間者の可能性はないのでしょうか。水戸藩激派と長州藩激派との関係から、ちょっと考えてみたことを、整理して覚書にアップしたいと思います。
芹沢?、大和屋焼き討ち文久3年8月12日(9月24日)
芹沢は、壬生浪士組総勢の半数を超える35名を連れて生糸問屋大和屋の土蔵を焼き討ちしたという。火消しも近づけず、町奉行が会津藩に出兵を要請するほどの大騒ぎとなった。御用金を申しつけるが主人不在を理由に断られて激怒したとも、生糸買い占めや異国との貿易等への「天誅」とも。

<ヒロ>この件についてはいろいろ不思議なことがあると思います。
関連:「覚書」浪士組(2)大和屋事件の不思議(1)
禁門の政変に出動/文久3年8月18日(9月30日)
公武合体派の会津・薩摩の連携によって、尊王攘夷激派の長州が御所の護衛を解かれ、長州寄りの公家7名が追放されるというクーデターが起る(禁門の政変(8.18の政変))。壬生浪士組は会津側の一員として出動した。

同日、この功績が認められて、新選組の隊名が下るといいますが疑問があります。21日には市中取締まりを正式に命じられました。斬捨て御免も許されたという説もありますが・・?・。
新見錦の切腹/文久3年9月13日(10月25日)?
芹沢の片腕、新見が切腹させられた。

★新見は乱暴者で近藤・芹沢が説得しても聞きいれない。水戸浪人吉村常郎のところで乱暴を働き、別の水戸浪人梅津の介錯で切腹した。この後、芹沢は段々代わって乱暴がひどくなった。朝廷から召し捕れと命令があったが、一室に謹慎させることにした。(永倉新八『浪士文久報国記事』)

★祇園貸座敷山緒で切腹。(永倉新八『同志連名記』)

★近藤は新見の非行を挙げ、祇園の貸座敷山緒で詰め腹を切らせた。(『新撰組顛末記』)

<ヒロ>
水戸浪人吉村は、本国寺党の吉村恒次郎を指すのかもしれません。 吉成恒次郎は、戊午の勅諚返納反対に長岡に屯集した激派(長岡勢)の残党であり、万延元年8月に、同志37人とともに「天下浪士」と称して江戸の薩摩藩邸に駆け込んで、攘夷の先鋒を務めたいとする意見書を提出しました。薩摩藩邸では彼らを水戸藩邸に引渡し、その後水戸藩邸に幽囚されていましたが、文久2年11月下旬の幕命により、赦免されました。彼らは藩主慶篤の上京に随行を願ったが許されず、長州藩の伊藤俊輔に連れられて、文久3年3月初めに上京していました(こちら)。なお、吉村は山口徳之進とは従兄弟同士です。

なお、田中伊織という人物が9月13日に亡くなっていますが、田中は近藤の意に従わないのを憎まれて闇殺されたといいます(『新撰組(壬生浪士)始末記』)。田中と新見が同一人物との見方もあります。

また、霊山の木村さんによれば、新見錦は霊山の祭神として祀られているそうで、木村さんはこれをもって新見が長州の間者ではないかと推測されています。新見の長州間者説は検証が必要だと思いますが、どうやら芹沢は祀られていないそうで、なぜ新見だけが?という疑問は確かにわきますよネ。

関連:◇文久3年9月13日−田中伊織(新見錦と同一?)暗殺
芹沢鴨・平山五郎暗殺される/文久3年9月18日(10月30日)
筆頭局長芹沢が島原角屋で宴会の後、泥酔して屯所で就寝中に4−5名に襲われて絶命。一派の平山も殺害され、平間は脱走する。当時は長州の仕業という噂が流れたという。

★ 新選組は島原の角屋で宴会を開いた。芹沢・平山・平間・土方・沖田・御蔵は先にひきあげ、芹沢・平山・平間・土方の4名は八木の本宅で酒宴を開いた。土方は芹沢を酔わせて早く寝かせようと、「お開きにしよう」といって酒をひきさげた。土方は八木邸を去るときに玄関の障子をあけ、門の扉をあけておいた。襲撃メンバーは土方・沖田・藤堂・御蔵。まず平山を斬り、次に屏風ごと芹沢を刀で突き刺したという。(『浪士文久報国記事』)メンバーは土方・沖田・藤堂・御蔵。まず平山を斬り、次に屏風ごと芹沢を刀で突き刺したという。(『浪士文久報国記事』)

★会津候は近藤・山南・土方・沖田・原田を呼び出して芹沢暗殺を命じた。沖田は最初に部屋に入り、就寝中の芹沢に無言で斬りかかったが、目覚めた芹沢に脇差で反撃され、鼻の下に軽傷を負う。山南は原田とともに平山五郎を殺害したという(『新撰組(壬生浪士)始末記』)

★*「芹沢を暗殺しましたのは沖田が主任」*(阿部隆明談『史談会速記録』83より引用)


★八木老人の母親によると、土方・沖田・山南が襲撃メンバーの中にいたようだという。(子母沢寛「八木老人昔話」『新選組遺聞』)

★八木老人が、後年、永倉と話した時、永倉は襲撃メンバーを土方・沖田・原田・井上と推測していたという。(子母沢寛「八木老人昔話」『新選組遺聞』)


★斎藤は近藤の命令で芹沢を殺害した。(「藤田家文書」)


←藤田家文書は斎藤の長男が死ぬ前に妻に口述筆記させたものである。

<ヒロ>
襲撃の当事者による記録はありません。永倉は角屋にずっと残っており、翌日に急を知らされたとしています。近藤らが永倉を信用していなかったということでしょうか。

ドラマでは夏の雨夜の襲撃となっています。子母沢寛の八木老人昔話で、残暑が厳しく唐紙はあけっぱなし、しかも土砂降りとされているからです。しかし、実際は西暦では10月30日。残暑どころか夜は冷え込む季節。お天気はというと、『幕末維新京都町人日記』(四条大宮在住の町人の日記)によれば、18日は晴れ。17日も晴れです。子母沢寛の新選組三部作は史実のように思われていますが、実はフィクションであり、当然ながら虚構が多いのですが、これもそのようです。とすると、八木老人話の襲撃メンバーもどの程度確かなものかと思われます。16日が雨だったので、襲撃がその日とする説もありますが、墓碑銘の日付が18日であり、襲撃は18日にあったとする方が自然ではないかと思います。

関連:◇文久3年9月18日−芹沢鴨暗殺 9月20日−芹沢・平山の葬儀
(注)参考史資料は同時代史料後年の回想録・記録伝記・口伝、実話に取材した読物、の4種類に分けて色分けしました。同項目に関して複数の史資料がある場合は成立年代順に並べました。なお、資史料の語句をそのまま引用しているのは*「」*で囲んだ箇所だけで、残りは要約/パラフレーズです。

(1998.9.18、2004.3.17)

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衛士関連での前例が何件かあり、まいっていますのでヨロシクお願いします。

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