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泉涌寺塔頭戒光寺
-御陵衛士の墓所-


<場所:東山区泉涌寺山内町。京阪下車>

泉涌寺は天皇家の菩提所で、孝明天皇の御陵も山内にあります。新選組に殺害されたり戊辰戦争で死亡した御陵衛士は、この泉涌寺の総門前の戒光寺(泉涌寺塔頭)墓地にあります。彼らは死後もなお 衛士として孝明天皇の御陵をまもりつづけているのです・・・。

泉涌寺総門   

左: 孝明天皇の御陵のある泉涌寺総門。総門の手前左に戒光寺墓所がある
右:泉涌寺塔頭戒光寺

戒光寺墓所全景

戒光寺御陵衛士墓所
正面左から毛内・伊東・藤堂・服部の墓碑。
石香炉・手水場は明治2年の墓碑建設時に
毛内監物の出身・弘前藩から供えられたもの)


注:2007年6月中旬以降、戒光寺御陵衛士墓所は「不心得な参拝者のため」立ち入り禁止になりました。戒光寺墓地の柵に掲示がされています。信心からお参りするファンのために、命日(11月18日)は立ち入りを許可していただけるそうです。(詳しくはこちら)命日以外は柵越しに墓参ということになります。いつお参りするにしても、墓所・お寺(ご本堂)においてはくれぐれもマナーを守るようにしましょうね(お互い)。


■戒光寺詳しく
戒光寺は、鎌倉時代の安貞2年(1228)、後堀河天皇の勅願所として猪熊八条に創建された由緒ある寺です。ご本尊の「丈六釈迦如来」の首の辺りから何か流れている様に見えるのは、血の跡で、江戸時代初期の後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ暗殺者に襲われたときに、身代わりに立ったのだとされています。正保2年(1645)、その、後水尾天皇の発願により皇室の菩提寺である泉涌寺の山内に移されました。(朝廷のためには一命を捨てる覚悟だった伊東らも、特別な思いをもってご本尊を拝観したのではないでしょうか^^)。

■戒光寺への改葬
慶応3年11月に油小路で戦死した4名の遺骸は、新選組隊士の菩提寺である光縁寺に仮葬されましたが、鳥羽伏見戦争後、朝廷からの沙汰によって慶応4年2月13日、戒光寺に改葬されました。

同年2月の津軽藩士葛巻行雄書簡によれば、旧年中に改葬するはずだったが、新選組に障りがあり、やむをえず延期になったといいます。改葬の際は、4人の傷を改め、武装束に着替えさせましたが、仮葬から既に80日余も過ぎていたのに関らず、死骸はたった今討死したばかりのように見え、参列者は「勇者の一念」だと語り合ったとそうです。葬儀は大名にも珍しいほど盛大で、雨天の中、生き残りの衛士7名は騎乗、その他150人ばかりが野辺送りをしました。(泉涌寺の文書には7名が騎乗・葬儀には300人ほど集まったと記されているそうです)。その費用は新政府参与の役所から出されました。時節柄多忙であるからか、墓碑はすぐには建立できず、埋葬したままにしなくてはならないので、その分引導は特別に手厚く、百ヶ日(2月28日)にも別途供養するようにとの指示があったそうです。湛念は「死に冥加と申すはこの事か」と述べたそうです。(管理人がご住職にうかがったところ、伊東らの墓所をつくるためにわざわざ総門前の山をきりひらいたそうです。やはり破格の扱いだったといってよいと思います)。

■戒光寺と衛士の深い関わり
御陵衛士と戒光寺の関わりは、葬儀のときに発生したのではありません。当時の長老(他宗派では管長)湛念は、かねてから伊東らと親交があり、彼らの勤王の志を深く察し、御陵衛士拝命に尽力したそうです。湛念は、いってみれば衛士の生みの親なのです。毛内は、常々、「山陵衛士も相勤め候儀に付万一のこともこれあり候はばいづれ泉涌寺に葬りくれ候様」話していたそうです。他の同志も同じ気持ちだったと思います。湛念は、油小路事件後、一時、阿部と内海を匿い、通りに放置されたままの伊東らの遺体の引き取りを交渉しています。管理人は、戒光寺への改葬の沙汰が下ったのには、湛念の口ぞえもあったのではないかと想像しています。(戒光寺と衛士との関わりについては、別途、整理する予定です)


<慶応3年11月18日油小路事件で新選組と戦って横死した4名の墓碑(墓所正面)>

毛内監物墓碑 奥州弘前之人 武明没之日於同所戦死
毛内監物平良胤
年三十三

毛内監物は津軽藩脱藩。父は300石取りの用人で、生母は執政の娘、 生母亡き後に母となった滝子(津軽では歌人・賢夫人として有名)は 1000石取からきており、新選組/御陵衛士にめずらしい上士の出。学者肌で衛士になってからは、伊東と共同で建白書を執筆した りもしたようです。剣はあまり使えなかったが、一説に、油小路で敵に囲まれると一歩も引かず、「大事な命だ、逃げてくれ!ここは拙者が!」 と同志に向かって叫びながら闘い続け、全身なますのように斬られて死んでいったといいます。戒名は「覚知院剱冷居士」だそうです。【同志列伝:毛内監物
伊東甲子太郎墓碑 常州志筑之人 慶応三卯丁年十月十八日於油小路戦死
誠斎 伊東甲子太郎武明
年三十二

伊東は常陸志筑藩出身。文武にすぐれ、教養があり、親思いで、ルックスも人柄もよいと評判の人物。国事に尽くすために新選組に加盟。近藤の信頼を受けていたが、次第に考えの差が明らかになり、新選組幕臣取立ての内定を機に、信条を通すために孝明天皇の御陵衛士として隊を分離。一和同心・国内皆兵・大開国大強国を掲げ、公議を基本とする公卿中心の政権構想の実現を目指しまたが、彼を憎む新選組に罠をかけられ、七条油小路で謀殺されました。享年32歳と墓碑にはありますが、伊東の実弟の三樹三郎家の古文書によれば、33歳となるらしいです。【同志列伝:伊東甲子太郎
藤堂平助墓碑 東武之人 武明没之日於同所戦死
藤堂平助藤原宣虎
年二十四

藤堂は伊東甲子太郎の寄弟子だったようですが、近藤らと上京し、斎藤一と並んで新選組最年少幹部となりました。当初は近藤の「四天王」に数えられ、常に先陣を斬って闘いに臨むことから「魁先生」とも称されました。伊東らの新選組加盟を周旋し、ともに分離。農兵を集めるなど、伊東の「左右の手」とよばれました。油小路では、まっさきに剣を抜いて待ち伏せの新選組と斬り合いましたが、全身に大小多くの傷を負って、刀を握りしめたまま討死しました。【同志列伝:藤堂平助
服部三郎兵衛墓碑 播州赤穂之人 武明没之日於同所戦死
服部三郎兵衛良章
年三十六
服部は老臣を斬って赤穂藩を脱藩したともいわれています。その後、江戸に潜伏中に伊東と知り合い、兄弟同様になったそうです。伊東と共に上京。上背があり、剣の強さを謳われている。油小路では、二刀を使い、四方に敵を受けながら勇戦し、多くの相手に手傷を負わせました。刀が折れたところを原田の槍で殺害されたといいます。刀を両手に握りしめながら大の字になって倒れていたそうです。事件直後の現場を目撃した桑名藩士が、服部の見事な死に様を称えています。【同志列伝:服部三郎兵衛


<佐原太郎、会津藩邸で横死した4名、戊辰戦争で亡くなった2名の合計7名の合祀墓>

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最終更新日:2000.5.29, 2004.7.20


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