残し置く言の葉草(2)恋、志の歌に戻る 

山南氏の割腹を弔うて

志に命を賭けて散った人物の残した歌です。やおい作品への悪用は絶対にやめてくださいね。(歌に訳をつける管理人も立ち直れないショックを受けます:涙)。

山南氏の割腹を弔うて
春風に吹き誘はれて山桜散りてぞ人に惜しまるるかな
吹く風にしぼまむよりは山桜散りて跡なき花は勇まし
すめらぎの護ともなれ黒髪の乱れたる世に死ぬる身なれば
雨風によし晒すとも厚ふ(厭ふ?)べき常に涙の袖をしぼれば
「春風に吹き誘はれて山桜ちりてそ人に おしまるるかな」

<ヒロ訳>春風に吹き誘われ、散ってこそ、山桜は人に惜しまれるのか・・・。あなたが割腹し果てた今、いまさらのように人々は失ったものの大きさに気づき、その死を惜しんでいることだ。

「吹く風にしぼまむよりは山桜散りて跡なき花そいさまし」

<ヒロ訳>吹く風に散った山桜を人は惜しむ。しかし、風にしおれ、枝にはりついているよりも、跡形もなく散る花こそが勇ましいのではないか。(人は割腹したあなたをとやかくいうかもしれない。しかし、逆風に畏縮し、志を枉げて汲々と生き続けるよりも、それに立ち向かって見事に散ったあなたの勇しさをわたしは忘れない)。

「すめらぎの護ともなれ黒髪の乱れたる世に死ぬる身なれば」

<ヒロ訳>せめて、その魂魄はこの地に留まり、天皇をお守りしてくれ。この黒髪のように乱れた世に志半ばで無念の死を遂げねばならなかったのだから。

「雨風によし晒すとも厭うべき常に涙の袖をしぼれば」

<ヒロ訳>たとえこの身を雨風にさらすとしても厭うものか。いずれ、わたしの袖はあなたの死を惜しむ涙で常に濡れ、絞っているのだから。(わたしも、志を貫くために逆風に身を置くのはいとわない。どうかそれを見届けてほしい)

<ヒロ>
「残し置く言の葉草」200首余の中で、伊東が新選組隊士の死について詠んだ歌はこの弔歌だけです。しかも、4首も詠まれていることからも、伊東の衝撃の深さは想像できると思います。そして、その4首の一つ一つから、同志としての山南の死を深く悼む気持ちがあふれ出ている気がします。同時に、和歌には、山南割腹の真相につながるものが、見え隠れしている気がします。山南の割腹理由には諸説あり、謎だとされてます。管理人は脱走説はとっていませんが、いずれにせよ、山南の死の背景には、近藤・土方との深刻対立があったと思っています(それが西村説のように西本願寺への屯所移転をめぐるものだったのかどうかはともかく)。

一首目の「春風に・・・」:山南が死んで今さらのように存在価値に気づき、惜しむ人々・・・割腹の前、山南は隊内であまり重きを置かれていなかった様子がうかがい知れると思います。伊東は、それを残念にも無念にも思っているようです。

二首めの「吹く風に・・・」:山南は隊内で強い逆風に晒されていたことが推し量れるのではと思います。逆風=近藤and/or土方との鋭い対立だと思います。自分の意見が容れられない時、組織にしがみつくことを選び、実力者/多数派に従って生きていく道もあるでしょう。そうではない道もあるでしょう。西村説のように、近藤が土方の意見を重用するのを土方の奸眉に迷ったとし、諫止のための自刃をしたのかどうかはわかりません。山南が罠にはめられ、自刃に追い込まれたとの説を唱える方もいます。伊東のこの歌からは、少なくとも、山南が、割腹を自ら選び取ったように思えます。

三首めの「すめらぎの・・・」からは、山南が朝廷に忠誠心を抱いていたことが推し量れるのではと思います。この世にあって、ともに王事に尽すことはもはや不可能だが、せめて魂魄は京地に残り、志をまっとうしてくれ・・・。

管理人は、これらの歌は山南の死の直後に詠まれたものではなく、時期を置いて詠まれたのだと想像しています。伊東は和歌を嗜んでいた人物ですから、実際の桜の開花・雨風と無縁に歌を詠んだのではないと思うのです。壬生に住んでいた高木在中という町人の元治2年の日記によれば、この年、山南の亡くなった2月23日(西暦では3月20日)はまだ京都では桜が咲いていなかったようで、3月12〜18日前後が盛りだったようです。そして、12日・13日と、壬生近辺では雷をともなう雨が降っています。桜も随分散ったことでしょう。

十二日 晴天。嵐山桜花盛の由。(中略)夜雨降四ツ過ぎより雷鳴、八ツ半時甚しく、翌日朝、六ツ半止。
十三日 雨降。四ツ前二ツ鳴。(後略)
十四日 交天(好天?)。夜同断。
十五日 晴天。夜同断。
十六日 双天(掃天?)。七ツ前より雨降。(後略)
十七日 晴天。家内之者御室へ行、桜花最中之由。夜同断。
十八日 晴天。東山桜極咲り也。夜同断。

この桜のピークの時期は、山南の死の原因ともされる屯所の西本願寺移転が行われた時期と重なるようです。3月1日付土方歳三書簡によれば、移転が3月10日頃の予定だとされているからですが、正確な日付まではわかっていないようです。高木の日記では、13日に混雑があったといいますし、移転は13日だったのかもしれません。

だとすれば、最後の歌などは、伊東が壬生を離れる前に、降りしきる雨の中、光縁寺に眠る山南を訪ねたときのものかもしれない・・・と想像してしまいます。


おまけ:伊東の山南弔歌と沖田総司の辞世といわれる句
(2004.2.22, 3.1)

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