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元治元年10月15日(1864年11月14日)
近藤勇、伊東甲子太郎ら江戸を出発する

元治元年10月15日、東下をしていた新選組の近藤勇・永倉新八・尾形俊太郎・武田観柳斎、江戸での隊士募集に応じた新入隊士、および入隊希望の伊東甲子太郎・三樹三郎(当時三木三郎)・篠原秦之進・内海次郎・加納鷲尾・大村安宅・中西登らが、江戸を出発しました。ただし、伊東らは近藤らとは別々で、大森(品川)の寿留賀楼から出立し、17日に藤沢宿で合流したようです。

<ヒロ>
そうでなくても、当時、旅に出るということは大変なことでした。まして国事のために上洛するわけですから、再び帰ってこられるかどうかは定かではありません。寿留賀楼では親しい人たち(関東に残る同志や門人たち?)と水杯を交わし、見送られての出立だったのではないでしょうか。

このときを詠んだ伊東の歌。(やおいには絶対に悪用しないでください

甲子の歳国の為に都に上らんとて大森の寿留賀楼を出で立て
残し置く言の葉草のさはなれといはて別るる袖の白露

<ヒロ訳>
(江戸に残し置くあなたに)お別れですといわずにわかれたわたしの袖は、草に置かれた白露のように涙で濡れています。

<素人解釈>
改めて向かい合うと胸がつまって別離の言葉を言出せず、その代わり、気持ちを綴った手紙をそっと残し置いてきたのでしょうか。国のために尽すのだからと、必ずまた会えるのだからと笑顔で別れたけれど、いざ江戸を発つと、寂しさが次第に心にしみいり、涙がこみあげてくる・・・そんなしみじみした歌なのではと思います。残された手紙をみつけて読んだその人の袖も涙で濡れたかもしれません。

*第2訳として、「(江戸に残し置くあなたに)残し置きたい言葉は多いけれど、何もいわずにわかれたわたしの袖は、草に置かれた白露のように涙で濡れています」も考えました。一人残していくあなたに言いたいことは山ほどあるのに、改めて向かい合うと胸がつまって何も言えない。国のために尽すのだからと、必ずまた会えるのだからと笑顔で別れたけれど、いざ江戸を発つと、寂しさが次第に心にしみいり、涙がこみあげてくる・・・そんな歌になるでしょうか。この場合、「さは」は「多」で、同じ音の「沢」が「草」や「白露」の縁語になっています。

伊東が言の葉草を残し置いた(言葉を残して置きたかった)「その人」は誰なのでしょうか。わたしは、江戸の同志ではなく、妻ウメではないかと想像しています。伊東は翌16日にも、「忘れめや恋しきものをかり枕旅寝の夢に袖ぬらしつつ」という恋慕の歌を詠んでいますし、実は、上洛してからも恋(愛)と国事のはざまに揺れる心をいくつも詠んでいます。(関連:衛士館「残し置く言の葉草」「(2)恋、志の歌」)。国事のために江戸を出立した伊東の最初に詠んだ歌が、(その国事に高揚した気持ちではなく)残し置く妻への思慕を詠んだものだとすれば、なんだか、大変伊東らしい気がします。

そのウメが伊東の母のこよに伊東の旅立ちを知らせる手紙が、ご子孫の手元に残っています。

「出立の日は当月15日に御座候。大蔵(伊東のこと)に付き添い候人々は、三木氏(伊東の実弟)、並びに内海、中西(ともに伊東道場塾頭)、外に大蔵をしたひ候人6人、是は誠にたしかの人々にて、全く国家のためを思ひ、ともに志を立て候人々故、誠に大蔵の力となり候人々ゆえ、私事も安心いたし居候まま、かならずかならず御心配なく御安心願い上げ候」

大蔵というのは伊東の最初の名です。上洛を機に改名し、甲子太郎を名乗っています。

わたしは、後に、伊東を案じるばかりに、こよが病だと嘘をついて伊東を江戸に呼び戻し、それが原因で離縁されたというウメの、この書簡が好きです。夫を誇らしく思う気持ち、また寂しく不安な気持ちを気丈に隠している武士の妻としての心情が伝わってくる気がします。国家のために出立する夫の名を改名後の「甲子太郎」でなく、生活をともにした「大蔵」の名で呼んでいるのも女心という気がします。

また、伊東派というのは、ドラマや解説本では悪巧みをするだけの陰険な集団とされることが多いのですが、ウメにとっては、大事な夫を慕って集まった、国家を思い、志をともにする頼りになる人々だったのです。(ウメによると伊東派は総勢10名の上洛ということになります。伊東を慕う6人は、佐野七五三之助、篠原泰之進、加納鷲尾、大村安宅までは確認できるのですが、残りは確かではありません。服部三郎兵衛(武雄)も伊東と同時期に上洛しているはずなのですが名簿にはのっていません)。

***
<古文奮闘記>
実は、和歌にはまったく疎い管理人は、伊東の歌の「さはなれと」の解釈に非常に苦しみました。古語辞典を引くと何通りにもとれるのです。

1)「さ(接頭語)」「はなれ(離れ)」「と」→「別れと」
2)「さ(然)」「は」「なれ(成れ、為れ、生れ)」[と」→「そのようには成就せよと」「そうはなれと」「そのようには実を結べよと」(実は、最初は、直感で、これだと思いました。同志に向って詠んだ歌だという気がしたのですが、「然」が何をさすのか、なぜ「は」なのか、なぜ「そうはなれと言わない」のか、また、涙とうまく結びつけることができず、挫折)。
3)「さ(それ)」「は」「なれ(汝れ)」「と」 →「それはあなただと」(これも、なんだか「らしい」と思ったのですが、「さ」が何をさすのかどうにも想像できず挫折)。
4)「さは(沢)」「なれ」「と」→「沢になれと」「沢であれと」(沢は、草・白露と関係あるような気もしたのですが、うまく意味づけられず挫折。ちなみに「白露」は、秋の季語で、その時期、草木に置かれた露を意味します)。
5)「さは(多)」「なれと」→多いけれど

また、「言の葉草」は辞書で引くと手紙のことですが、「草」は「白露」のために「言の葉」につけただけで、実は、「言葉」を意味するのではないかとも考えてみました。()。

いろいろ悩んだ結果「さ離れ」、そして「手紙」を採りましたが、皆さんはどう思われるでしょうか?

また、「さ離れ」だとしても、関東に残る同志との別離への涙である可能性もあるとも思います。伊東は慶応3年、九州に旅立つ前にも、酒を酌み交わした同志との別れに涙していますし(「世の憂きに濡るる袖さへ人はただ今の別れの涙とや見ん」「ますらおの袖の涙は別れ路に濡るるものとは思はざりけり」こちら)。ただ、上にも書いたように、伊東は度々、愛しい女性と国事のはざまに揺れる心を詠んでいること、翌16日、戸塚宿で「忘れめや恋しきものをかり枕旅寝の夢に袖ぬらしつつ」という歌を詠んでいることから、ここは、やはり女性との「さ離れ」の歌だと考えました。もちろん、「恋しきもの」は古語ですから、女性を指すとは限らないのですが。古文って、むずかしいです(涙)。

***
追記1(2004.2.22):
松濤さんから「さはなれ」は「然はなれ」で、強い願望・希望を表している、と解釈してはどうかとのご意見と試訳をご投稿いただきました。松濤さんがHP本文への転載を快く了承してくださいましたので、こちらにご紹介いいたしますね。
甲子の歳国の為に都に上らんとて大森の寿留賀楼を出で立て
残し置く言の葉草のさはなれといはで別るる袖の白露

<松濤さん訳>
江戸に残していくあなたへの深い愛情の気持ち、別れ難い気持ちは、手紙に書けるものではありません。どうぞ察してください。どうぞ私がいない間もお元気でいてください。涙が次から次から湧いてきて私の袖を濡らしています。大きな志を果たすために私は上洛します。くれぐれもお身体をお大事にしてください。

追記2(2004.2.22):
『大辞林』を読んでいたら「ことのはくさ」は「言の葉草(=書簡)」とも「言の葉種(=和歌)」とも書くことがわかりました。伊東のこの歌の場合も、もしかしたら「言の葉種(=和歌)」なのかもしれませんね。
関連:「元治元年8月下旬〜9月上旬?−藤堂、東下して伊東を新選組に勧誘。」「9月頃−伊東、近藤に会って新選組加盟について話合」 「10月12日:【江】近藤、入隊(希望)者を会津藩に報告(伊東らは入隊者ではなく希望者)「10月15日:【江】近藤、新入隊士とともに江戸出発。伊東ら10名江戸出発 「10月16日【江】伊東の同志・大村安宅、神奈川の関所を避けて間道に入る
<参考>『新選組史料集コンパクト版』・『新選組覚書』
2000.11.14、2003.12.5

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