11月の「今日の幕末」  幕末日誌文久3 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ

文久3年10月7日(1863.11.17)
【京】攘夷別勅使東下延期
【京】一橋慶喜に上京の朝命
【京】春嶽に上京の沙汰/薩藩小松帯刀、春嶽上京を促す

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■攘夷別勅使
【京】文久3年10月7日(1863年11月17日)、朝廷は攘夷督促の別勅使の東下中止を決めました

理由として、横浜で鎖港談判が確かに始まったと容保が言上したこと、また徳川慶勝(前尾張藩主)・徳川茂承(紀州藩主)が東下猶予を願い出たことがあげられています。(有栖川宮への沙汰書−『七年史』)*日付については、七年史で10月8日となっているが、徳川慶喜公伝(有栖川宮日記等)の7日を採用)

■一橋慶喜再上京
【京】文久3年10月7日(1863年11月17日)、鎖港談判についてきくためとして、将軍後見職一橋慶喜に上京するようにとの勅命が出されました。

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 」■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」「攘夷別勅使「将軍・後見職の再上洛」 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『七年史』ニ、『徳川慶喜公伝』2(2001.11.17)

■春嶽再上京
【京】文久3年10月7日(1863年11月17日)、前政事総裁職(前越前藩主)松平春嶽に上京の沙汰が下りました。

「御用の儀在らせられ候間、早々上京之有るべく御沙汰候事」

越前藩は、会津藩主松平容保の助言により、3月の春嶽の総裁職無断辞職・帰国(こちら)の御詫書を朝廷に提出し(こちら)、同6日、赦免状を得ていました(こちら)

【京】文久3年10月7日(1863年11月17日)、薩摩藩家老小松帯刀は、越前藩家老岡部豊後に書簡を認めました。書簡中、滞京中の国父島津久光は春嶽と会見して意見をきくまではどこへも出かけない方針であることを伝え、春嶽の速やかな上京を促しました

「(前略)三郎様(=島津久光)にも先日御懸合い申し上げ候通り、先月十二日御国許(=鹿児島)御発駕、海陸御恙無く去る三日御京着遊ばされ候。偖(さて)、春嶽様御上京の儀に付き、度々御細書を以て被仰聞趣、御懇志の程、忝(かたじけな)く存じ奉り候。小生には御国許も御先に発足致し、追々の御書翰も掛違いに相成り、先日の御掛合い申し上げ候跡にて拝見いたし候事共に御座候。三郎様にも御懸合いの事共、一々御承知遊ばされ、何とも御気の毒に思召され候。

併しながら、(久光は)最初より被仰談候通り、何辺御示談、天下の為御尽力遊ばされたき思召しにて、御京着後、何事も仰せ立てられず、兎角、春岳公御出京の上に御賢考の程も御承知遊ばされ、其の上何事も仰せ立てられ候御趣意にて、未だ何方へも御出之無く遊ばされ、(春嶽の上京を)御待ち候事に御座候處(ところ)、昨日、春嶽公御召しの勅命相下り候談御承知、別て御満悦、先々(まずまず)御祝儀仰せ上げられたく思召し候。(久光は)此の上は早(春嶽の)御上京御待ち遊ばされ候。(春嶽の)御着迄は(久光は)何事も御差し控え遊ばされ候間、(春嶽には)左様御承知下され候て、皇国の為、片時も早目御登京、呉々も御依頼遊ばされ候御事に御座候。(後略)」

(原文の候文をさらに書き下しby管理人。段落・句読点は任意。()内も管理人。管理人は素人なので、著作物作成の際は、必ず原典にあたってくださいね)

関連:■テーマ別文久3年:「春嶽の総裁職辞任」「越・薩提携の政変計画」「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■越前藩日誌文久3 
参考:『続再夢紀事』ニp173-174(2004.12.3)

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