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1864年7月11日(元治元年6月8日)
池田屋事件3日後。事件批判の張り紙

元治元年6月8日(1864年7月11日)、池田屋事件を批判する張り紙が五条大橋にはりだされました。(『甲子雑録』)

「長州藩(関係者)を捕縛したのは、一橋慶喜が計略をもって叡慮(天皇の意思)を偽り、攘夷の志がなく外国との貿易を盛んにしていたところ、長州の尊王攘夷が行われることを知った幕府がこれを案じてやったもので、慶喜をはじめ幕府の奸賊は皇国の大罪人で、遠からず天誅を加えるだろう」(口語訳・要約はヒロ)

<ヒロ>
池田屋事件の黒幕として禁裏守衛総督の一橋慶喜が挙げられています。尊攘派にとって新選組は幕府の単なる手足でしかないということなのでしょう。

★・★・★

この日、市中に長州の浪人が新選組に斬り込むとの噂が流れ、屯所の表門に大砲2門、裏門に大砲1門をすえつけて襲撃に備えました。(『島田魁日記』)また、新選組は大仏河原町の本山一郎(=土佐の北添佶摩)宅からの押収品(槍四本、具足櫃、両掛けなど)を所司代に引き渡しました。

さらに、この日、近藤は池田屋事件に関する書簡を故郷に送っています。有名な書簡ですが、他の史資料と比較すると新選組、ことに「試衛館一派」の活躍の誇張がみられることはよく知られているとおりです。同書簡によると、将軍東下後、老中から近藤を与力上席にしたいがどうかと尋ねられ、国許や父にも伝えたうえでありがたくお受けしたいと答えたそうです。この件をどう思うか故郷の支援者の意見をきかせてくれるよう依頼しています。(元治元年6月8日付近藤書簡)

<ヒロ>
小説ではよく近藤・土方は録位に欲がなく(あるいは与力上席が不満で)断ったとされていると思うのですが、実際は受ける方向で故郷の支援者の意見をきいていました。

<参考>『新選組史料集コンパクト版』・『甲子雑録』


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