| 元治元年7月4日(1864年8月5日)、 禁裏守衛総督一橋慶喜は伏見の福原越後に撤兵の朝命を伝えました。 慶喜は6月29日に出された勅命(禁裏守衛総督として諸事委任する)と宸翰(容保擁護と長州入京不可)をもって長州藩を説得させましたが、これらを矯勅(幕府が天皇の真意を矯げて出させた命令・書状)とする長州藩に対して効果はありませんでした(一度目の撤兵説得)。 そこで、今度は大目付永井尚志らを伏見に派遣し、朝命をもって、再度福原を奉行所に呼び出しました(二度目の撤兵説得)。朝命は、長州勤皇の志は深いが、出願のための武装上京は不穏であり、武装兵は帰国させ、福原が少人数と伏見に残り、しかるべき手順を踏んで出願し、謹慎して沙汰を待つようにというものでした。福原は朝命を山崎・嵯峨の武装兵に伝えましたが、彼らはこれを「矯勅」として随いませんでした。 <ヒロ> ひとまず撤兵し、手順を踏んで出願せよという慶喜と、あくまで藩主父子入京の上で出願という長州藩(公式論)との溝は埋まりませんでした。なお、会津藩では、この出願について、「・・・詐称にして、其実、越後等謀主となり、肥後守(注:容保)を討ち、去年8月18日の往時に返さんとの結構なる事知られければ、警備怠る所なかりけり」(『七年史』)だったそうです。 実は福原は奉行所への出頭を病気と称して延期していました。その間、部下を山崎に派遣して、真木和泉や久坂義助(玄瑞)と目付との応対について相談したそうです。 関連:6月29日−【京】禁裏守衛総督慶喜に長州処置委任の朝命(慶喜一度目の長州退京説諭) |
<参考>『七年史』、『徳川慶喜公伝』
他HP、論文、同人誌(漫画を含めて)・商業誌等に参考にされる場合は
出典(HPタイトルとURL)を明らかにするなど著作権と論文作法をお守りください。
8月の「今日の幕末」 HPトップへ