| 元治元年7月17日(1864年8月18日)、長州との戦闘に備えて九条河原に布陣中の会津藩士と新選組が、討伐に慎重な禁裏守衛総督の慶喜が「優柔不断で大事を誤る」と憤って、慶喜の宿舎に乱入して暴挙に及ぼうとしたそうです。九条河原の会津責任者(長井)も新選組局長の近藤も彼らを抑えることができずに、会津侯容保に急使をつかわしました。会津侯は公用人の外島義直を差し向けて彼らを説得させたので、ことなきをえたといいます。 ちなみに、この日、慶喜は退京の説得に応じない長州に対して、最後通告を行うため、率兵して伏見藩邸に入っている長州の重臣福原越後を呼び出しましたが、福原は病と称して現れなかったそうです。(以上、『京都守護職始末』) <ヒロ> 暴挙というのが何を指すのか明確ではありませんが、武力で脅して主張を通そうということではないかと思います(ちなみに慶喜は一橋家当主で独自の兵力を持っていませんでした)。このときの新選組は局長も事態を沈静させることができなかったといわれていますが、近藤に力がなかったというより、近藤の了解のもとの乱入だったのではないでしょうか。このとき、新選組内尊王派大幹部(長州に同情的だった可能性大)の山南敬介は病で臥していた可能性が高く、また藤堂平助もすでに江戸に向かっていて不在だった可能性があります。 京都守護職である会津藩が即時討伐を求めたのに対し、禁裏守衛総督慶喜は長州退京説得論(説得に応じない場合に討伐)でしたが、両者の足並がそろわないという次元ではなく、対立はかなり深刻だったようです。 会津藩では慶喜に不信感を募らせており、慶喜が実の兄弟である因幡・備前藩主(長州寄り)を通じて長州と内応しているのではないかとまで思っていたらしいのです。会津侯容保はこのころ、実兄である尾張藩の隠居(実力者)慶勝に、慶喜批判の書簡を送り、上京をうながしています。慶喜が討伐の決心をしながら、その都度因幡・備前・水戸などの働きかけで決心が鈍り、「人事を尽くすべき」と「因循」するのは当惑の限りであり、慶喜の態度次第では天下は闇になるとまで言っているのです。 これに対し、回想談によると慶喜は、戦いは避けられないと認識していたものの、とにかく表向きは嘆願であるので兵器を携えてきたといって即座に討つのは軽率だと考え、また公家・諸藩に長州に同情的なものが多い現実を考慮にいれなくてはいけないと思っていたようです。朝廷内では「この騒動は天皇を標的にするのではなく、容保を標的にしたものなので、彼を京都市外に追い出すべき」との意見が盛んだったともいいます。要するに会津と長州の私闘だという見解です。 そこで、慶喜としてはどこまでも長州に退京を説諭して、それが聴きいれられない場合に討伐ということになれは「人事を尽くした」という名分が立つと考えていたそうです。即座に討つ方があとあと面倒になると考えていたというわけです。慶喜は会津藩の激しさに相当へきえきしていたらしいのですが、自重して人事を尽くしたおかげで、変後、討伐側への批判はでなかったのだと自分の判断の正当性を主張しています。 関連:6月29日−禁裏守衛総督慶喜に長州処置委任の朝命(慶喜1度目の長州退京説諭) 7月4日−伏見の福原越後に撤兵の朝命(慶喜2度目の長州退京勧告) 7月6日−慶喜、諸藩に命じて長州に退京勧告させる(3度目) 7月11日−慶喜、監察(目付け)永井・戸川に長州退京を説かせる(4度目)。 7月16日−【京】慶喜、17日限りの長州退京を勧告(5度目) |
<参考>『七年史』、『徳川慶喜公伝』、『京都守護職始末』、『昔夢会筆記』、
『新選組戦場日記』、『幕末政治と倒幕運動』
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