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元治元年7月19日(1864年8月20日) 

禁門の変

元治元年7月19日(1864年8月20日)未明、伏見を進発した長州兵と、守備についていた大垣藩兵が砲火をまじえ、禁門の変が勃発しました(会津の守衛していた蛤御門が最激戦地だったので、蛤御門の変とも呼ばれています)。

■公武合体派の動き
有栖川宮以下、長州派公卿が急遽参内したことを知った中川宮は異変を察知し、京都守護職松平容保、禁裏守衛総督一橋慶喜、及び二条関白に報せました(容保も慶喜・関白に参内を促した)。慶喜は、公卿には容保を憎むものが多い上、長州の武威を恐れて容保の守護職御免の沙汰でもでれば一大事と、御所に乗り切りで駆けつけました。
■長州誅伐の勅
おりしも、伏見で大垣藩が長州勢と戦闘に入ったとの報が朝廷に届き、これを聞いた孝明天皇は「速やかに禁裏守衛総督(慶喜)以下、諸藩の兵たちが討伐し、朝権を輝かすこと」という勅を出しました。御所九門は閉じられ、守護職(会津藩)・所司代(桑名藩)を始めとする諸藩の兵も配置につきました。長州勢との戦闘は御門をめぐる攻防となりました。(関連「豆知識:御所の九門・六門」)

■慶喜の陣頭指揮
御所の防御状況を巡検した慶喜は、守護職の容保と所司代の定敬(容保の弟)に玉座の警備を任せ、自分は御所の外に陣を構えて指揮しました。慶喜は、実の兄弟である因幡藩主池田慶徳、備前藩主池田茂政(ともに長州より)の家臣がどう動くか測りがたいので自分が指揮をとるほうがよかったのだといっています。容保・定敬が病中推して参内したため、指揮を思うようにとれなかったためともいいます。

■遷幸(天皇立退き)の動き・講和の提議
鷹司邸に潜んで御所突入を図る長州兵の打つ砲弾がしばしば常御殿の玉座近くにあたり、立退きの準備が始まりました。これをみた容保は天皇に謁見を請い、「誓って玉体を守護し奉らん」と立退きを諌止したといいます。

また、慶喜が再び参内したときには、公卿から口々に「天皇に万一のことがあれば総督の責任だ。長州と和睦すべきである」との提議があり、激怒した慶喜は「禁闕(御所)に発砲せる賊徒に和睦などは思いもよらず」と退けたそうです。その間にも、長州派公卿(中山忠能や橋本実麗)は容保の九門外追放を主張してやまず、慶喜は拒絶の談判を繰り返したといいます。

■鷹司以下諸邸に放火→長州勢の退却
慶喜は遷幸・講和論を退けたものの、天皇の身の危険、及び時間がたてば朝廷から長州の入京御免の沙汰のでることを恐れ、会津・桑名に命じて、長州勢の潜伏する鷹司邸以下諸邸に放火させそうです。(旧会津藩士山川浩は、鷹司邸に大砲を打ちこんで進入したところたまたま火が起こったとしており、旧新選組隊士永倉新八は新選組が放火したのだとしている)。この日は風が強く、諸邸はたちまち炎上し、町屋へも延焼しました。火から逃れ出るところを諸藩の兵に追撃されて、長州勢は多数の死傷者を残して敗走しました。京都藩邸留守居役乃美織江は藩邸を焼いて京都を脱出しました。鷹司邸には長州の久坂玄瑞・寺島忠三郎などがいたのですが、両者は逃れきれないものと自刃しました。真木和泉はからくも逃れました。(歴史会議室に「禁門の変と久坂玄瑞」スレッドがあります)。

■残兵追討の沙汰
残兵追討の沙汰を受けた慶喜は諸藩に探索させましたが潜伏先が知れず、怪しむべき場所はすべて大砲を打ち込んで火を放たさせたました。

禁門の変で類焼した家屋は4万3千軒に及んだといいます。

■新選組は・・・
さて、京都守護職会津藩御預かりの新選組ですが、隊士が後年書いた回想録等にははなばなしい活躍が描かれていますが、『京都守護職始末』によれば、実際はそうでもなかったようです。

九条河原に布陣していた会津藩のうち長坂隊と新選組は最初伏見に向かったが戦闘が終了しており、九条河原に戻ったそうで、次に蛤御門で砲声がするのでそちらに向かうと、そちらでも戦いは終わっていたそうです。鷹司邸を攻撃したのは会津の坂本隊や彦根兵とのことで、鷹司邸から敗走する長州兵を追撃し、多くの者を斬ったのも彦根兵だといいます。

仙台藩士の記した『官武通記』によれば、やはり、会津藩と新選組は敗走する長州兵に備えて九条河原を動かずにを守っていたが、近藤が「御所で戦いが始まったようだ」と知らせたので、出陣したが、御所の戦闘はほとんど終わっており、残敵追討しか残っていなかったとしています。(そのときに火を放ったことになるのでしょうか)

関連:
◆6月5日(7.8)池田屋事件(1) ◆6月6日(7.9)池田屋事件(2)◆6月15日(7.18)−長州藩、進発開始 ◆6月27日(7.30)−長州、京都来襲の噂。容保・会津藩兵御所内に。孝明天皇、長州兵入京拒否の勅。 ◆6月29日(8.1)−慶喜に長州処分諸事委任の朝命(慶喜1度めの長州退京勧告) ◆6月29日(8.1)−禁裏守衛総督慶喜に長州処置委任の朝命(慶喜一度目の長州退京説諭) ◆7月1日(8.2)−長州藩福原越後の嘆願 ◆7月2日(8.3)−嵯峨屯集の長州軍探索の新選組隊士の報告。東九条宿陣の土方、故郷へ書簡。 ◆7月4日(8.5)−伏見の福原越後に撤兵の朝命(慶喜2度目の長州退京勧告) ◆7月5日(8.6)−長州派五卿、長州の要求を受け入れるようにとの建白書/新選組、西瓜売り変装の不審人物逮捕 ◆◇7月17日(8.18)−新選組・会津藩士、慶喜の宿舎に乱入/容保、前尾張藩主徳川慶勝(実兄)に上洛を促す/薩藩ら、諸藩に征伐主張/幕府の天狗党追討軍出陣 ◆7月18日(8.19)− 禁門(蛤門)の変まであと1日−長州に撤兵の朝命/慶喜、撤兵を最終勧告/長州、容保の告発書を提出/親長州公卿、急遽参内。 
(2001.8.20)

<参考>『七年史』、『徳川慶喜公伝』、『京都守護職始末』、『昔夢会筆記』、
『官武通紀』、『新選組戦場日記』、『幕末政治と倒幕運動』


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