9月の「今日の幕末」 事件:開国:開城(マクロな歴史) HP内検索 HPトップへ
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| ■「天誅」 【京】文久3年7月23日(1863年9月5日)、浪士らが佛光寺高倉の商人八幡屋卯兵衛が外国と交易することを怒り、家に乱入して卯兵衛を殺害し、三条橋に梟首しました。 参考:『七年史一』(2004.9.22) ■御所警備 【京】文久3年7月23日(1863年9月5日)、朝命により、久留米・薩摩・盛岡・芸州・小田原・佐倉・水戸・因幡藩の親兵の交番による唐門(公家門)内の警衛が開始されました。 唐門は、御所のうちでも天皇の居住区である内裏を囲む六門の中で、公家が出入りする最も重要な門で、5月27日以来、門外は守護職会津藩が警衛を担当していました(こちら)。門内に諸藩の親兵が配置されることには、会津藩は穏やかならぬ気持ちだったことと推測します。
関連:◆「開国開城」:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 ■テーマ別文久3年:「親兵設置&宮門警備問題」 参考:『水戸藩史料』p441 ■越前藩挙藩上京計画(政変計画) 【越】文久3年7月23日(1863年9月5日)、挙藩上京(参府延期)の藩論が逆転し、挙藩上京派(参府延期派)の本多飛騨・松平主馬・長谷部甚平・千本藤左衛門が解職されました。 先日来、松平春嶽(前藩主)・茂昭(現藩主)とともに挙藩上京する藩論(すなわち、7月に定められた藩主茂昭の参府延期)を強く推進してきたグループは、本多飛騨(執政)・岡部豊後(執政)・松平主馬(執政)・牧野主殿介(番頭)・長谷部甚平(寺社奉行・御勝手御用心得)・千本藤左衛門(監察)・村田巳三郎(村田氏寿/監察)・三岡八郎(由利公正/郡奉行・御勝手御用心得)等、それに政治顧問の肥後藩士横井小楠という、藩政改革派でしたでした。 挙藩上京をにらんだ茂昭の参府延期は、6月14日、参府派(保守派)の中根雪江が退けられていよいよ決定的になっていましたが、藩士の中には参府すべきとする者、中根の処分を不当とする者も少なくなく、参府派は、ことに、同月16日・24日と幕府から出府を促された後は、参府せねば親藩の義務を欠くことになると、頻りに異議を唱えたそうです。とはいえ、参府延期は既に決定したことであり、越前藩では、6月26日・7月4日に、病気が快方に向かえば参府するとの届けを幕府に提出し、去る7月18日には、毛利鹿之介に参府延期の事由書を携えて出府させていました。 もちろん、当の春嶽・茂昭も、「近来幕府の躰態違乱を極めし故、天下は土崩瓦解にも至るへきか、此時に当り外人等若隙に乗して奸猾を逞しくせんには開闢已来金■(おう)無缺の国體も如何なり果つべきや」と憂慮して、参府の時期が迫るにも関わらず上京して国事に尽力する決意だったそうです。ところが、7月6日に京都から帰った村田が、中根雪江同様に未だ挙藩上京の時機ではないと具申したこともあり、際限なく参府を延期することはどうか・・・という議論が持ち上がり、18日に出発した毛利を止めて、執政以下要職に再議させました。本多ら参府延期/挙藩上京派は前議をとって参府延期を主張しましたが、その言論がかなり過激になったので、ついに解職させられてしまったのだそうです。(参府延期派のうち、岡部・三岡は肥後・薩摩に藩論を説いて上京を促すために出張中で、牧野・村田は上京中で不在でした)。 <ヒロ> う〜ん・・・・。なんというタイミング。実は、7月12日に京都に戻った村田は、久光召命という新展開に、久光上京前に朝廷改革すべきだの判断をしており(こちら)、その方向で薩摩藩や朝廷に周旋していました(こちら)。これが成れば挙藩上京を促しに福井に戻ったはずなんですよね。このへんの状況が福井には伝わっていなかったのでしょうか。 このように、参府延期派の更迭によって藩論は逆転してしまうのですが、このへんが、親藩だった越前藩の限界なんでしょうか・・・・・・。ここでふんばっていれば、薩摩・越前主導の朝廷政変が実現していたのではと想像するのですが・・・。(薩摩藩でも動きがあります↓) 参考:『続再夢紀事ニ』(2004.9.24) 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「大和行幸と禁門の政変」■越前藩日誌文久3 ■久光召命&三度目の上京 【薩】文久3年7月23日(1863.9.5)、薩摩藩国父島津久光は、召命に対して、今は出発できないが、一門家老に多人数を添えて上京させるとの返書を認めました。 孝明天皇は、兼てから自分の意思を矯める朝廷激派の一掃を久光に期待しており、5月には「姦人を掃除せよ」との密勅を下していました。しかし、久光は、このとき、英国船が来襲する可能性が高まっており、動くことができませんでした。7月に入ると、孝明天皇は久光召命の沙汰を下し、藩士奈良原繁(幸五郎)が沙汰書を携えて20日帰国しました。しかし、久光も藩主茂久も、薩英戦争直後の混乱で出発するわけにはいきませんでした。そこで、久光は、同23日付で、自分は出発できないが、家臣の奈良原へ「委細申含め候趣」があるので奈良原から聞くように、さらに「右趣意通り相運」べば、たとえ自分が無理でも「一門家老之中人数差添え、不日上京仕らせ候含み」であるので、よろしく執成してくれるようにとの返書をしたためました。(「」内は「玉里島津家史料」ニより) <ヒロ> 参考:『玉里島津家史料』ニ、『島津久光と明治維新』(2004.9.24) 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変」 ■薩摩藩日誌文久3 |