9月の「今日の幕末」 事件:開国:開城(マクロな歴史) HP内検索 HPトップへ

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文久3年8月16日(1863年9月28日)
【京】早朝、中川宮、参内して「奸臣」処分を奏する。
孝明天皇、趣意に同意するが内勅を下さず/
夕、孝明天皇、中川宮に会津・因幡に処理させよとの密旨

■禁門の政変へ
【京】文久3年8月16日(1863.9.27)早朝、会津・薩摩と連合する中川宮は参内して、孝明天皇に勅を矯める「奸臣」の処分を請いました。しかし、天皇は計画に理解を示したものの、朝廷内に天皇の命令を言葉通り伝える者はおらず、詮が無いとして(あるいは時機尚早であるとして)、激派公卿処分の内勅は下しませんでした。・・・禁門の政変まで後2日。

中川宮は先に命じられていた西国(九州)鎮撫使の辞退を上奏するという口実で参内しました。会薩の両藩士達は、公卿がまだ参内しない早朝のうちに政変の内勅を得、中川宮の退出を待って行動を起こす手はずになっていましたが、中川宮がなかなか退出せず、そのうち激派の国事御用掛達が続々と参内するのを見て、事敗れたと覚悟したといいます。やがて退出した中川宮から、内勅が降りなかったことを知った両藩士は非常に落胆しました。もし計画が漏れるようなことがあれば一大事です・・・。

薩摩藩資料より
*京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書(『玉里島津家史料』ニp426)
「・・・十六日の辰の刻(朝5ツ、午前8時頃)御参内、尤叡慮(=天皇の考え)御伺いの上、直様薩・会御召しの賦に候間、間断無く其機に応じ奉る格護(覚悟)にて、二本松御屋敷(=薩摩藩邸)守衛方人数へも相達し、早々軍備致し、今哉遅しと待奉り候折から、案外、宮様(=中川宮)只今還御之由承知仕り、取物も取敢えず左太郎(=薩摩藩士高崎左太郎、正風)罷上り、御都合相伺い候処、武田相模守(=中川宮家臣)を以て仰せ聞かされ候は、今朝参内叡慮相伺い候処、趣意は至極尤もに候えども、只今に至りては禁中一人も其命を伝え候者之無き候間、致し方之無きと御合点遊ばされず候に付き、是非無き仕合に候と御沙汰在らせられ候由承り、頓と一同落力を申し候。第一右の儀世間に相響き候ては、実に一大事の訳に付き、大に心配仕り、成るべく目立たざる様そろそろと人数引取り申し候えども、最早色々世上の評判も之有る由・・・」

会津側資料より
*「鞅掌録」(『会津藩庁記録』三)
「十六日神事了らせ玉へ中川親王参内せらる。此の時に親王嫌疑を以て容易に召し玉はず。長谷卿の迫られしあるに及て公けに恭せられ、親しく真の叡慮を伺い、便宜に因て左右の姦を除き去り、力足らざれば、我公(=松平容保)をして人数を出し、力を尽くし玉わん事を欲せらる。親王出てて天前に進まれし時、天皇にも大に憤興し玉い、叡断して暴徒を除き玉わんとす。然共、時機尚早しとして大に危み、親王にも其事に興(あずか)らすして、武家の力を以てせん「を欲し玉えり。依て親王に戒め、堅く秘して漏洩せざらしめ玉う

鎮撫の命如きは、天皇固(もと)より親王の固辞せられん「を欲し玉う時に、親王の報を待ち、(大野)英馬・(秋月)悌次郎・(松坂)三内・(柴)秀次及び(広沢)安任等(御所の)唐門前の(会津藩の番所の)幕中に在り。親王、寅刻(=午前4時頃)を以て参内の暴徒の未だ朝せざるに及ばんとす。しかるに親王卯刻に過れも未だ参せられず、辰刻(=午前8時頃)に向んとして始めて参せらる時に、親王志を決せられ、事の必成を見ざれば、幾日夜を連す共、天前を退かずと。私に高崎左久郎等に語られし事有り。しかるに少頃にして宮中より還御の命を伝え来り。其間暴徒の参内する両三人有を視、是に於て皆謂ふ、事敗るる也と。覚えずして腋下流る。左太郎も、亦、失望して、(中川宮が)斯(かく)迄に一度び決心せられ、其事を遂られずしては、親王は寄るに足らざる也と云う。是に於て英馬・秀次等は走て黒谷(=会津藩本陣)に報じ、悌次郎及び安任は親王の殿に往き、武田相模守に因て命を待つ。親王及天皇には叡決し玉え共、勢の成し難きを以て、後の機会を待しめ玉うと云うを諭し知らせらる。(他者は)親王の参せられしは鎮撫(=西国鎮撫使)を辞せられたる也と思え共、天皇深密の勅を蒙られしを知るものなし。然共、親王には事敗れたりとし、帰臥して息せられたり」

*『京都守護職始末』
「十六日寅刻(暁7ツ、午前4時頃)中川宮九州鎮撫使辞任の為め、上奏するに装ひ参内ありしかど、一人の之を疑ふ者なし。依りて宮密に奸臣を除くの議を奏上す。主上素より其叡念あらせ給ふと雖も、時機に於て未だ危疑し玉ふ所あるを以て、暫く許したまはず。辰刻に及びて、宮遂に退出し給ふ。始め安任胤永左太郎と中川宮に伺候せしに、宮未明に参朝し、掃天勅許を得諸堂上の参朝せざるに先んじ、会薩の兵を以て禁門を固め、勅許を得たる堂上にあらざれば、一人も入朝を許さずして事を謀らんとせり。然るに宮の未だ退朝なきに、堂上の人々中にも過激派の国事掛既に続々参内し、今は当初の策を施す能はざるに至れり。安任・左太郎等、事既に敗れたりとなし、一方には賀陽殿(=中川宮)に候し、一方には急を黒谷(=会津藩本陣)に報じたり。既にして宮に謁し、事の由を候するに、未だ以て事の敗れたるにあらず。されど此の密議にして万一洩泄しなば、宮の御身に取り由々敷大事となる事必せるを以て、宮も大に苦慮せられ、若し事の泄るに於ては、速に東行して名護屋に至るの外なしと大息せられしとなり」

*『七年史』
「十五日(ママ)暁更、中川宮は御参内あり。御前に参りて徐に曰く、御親征の議は極めての事件なるも、既に勅命を下し給えるは、必ず陛下の御神算御確信ましましぬるにより、此御沙汰ありしを信じ奉る。尊融謹で叡慮の程を伺い奉ると奏せられしに、主上は怪み給いて、何事ぞと御尋ねありければ、宮は十三日の勅書(=攘夷親征の詔)を上りて曰く、勅命を表白せられしもの此の如くにして、行幸の用意頗るいそがわし。されば昨日(=14日)松平相模守(=因幡藩主)、松平備前守(=備前藩主)、上杉弾正大弼(=米沢藩主)参内して、御親征の不可を諫争せしも、事の意外にして容易ならざる陰謀の、其聞に伏在しあるを察すればなりと。主上は勅書を御覧有て、いたく驚かせ給いて曰く、親征の機会今日に在りと、三條中納言、東久世少将等度々奏請せしも、朕思う所あれば、未だ許さざるなり。されど神武天皇の山陵を拝せんと思うは、朕が素志なれば、此事は許せしも、急ぎしにあらず。好期を待て、其日を定めんと思いしのみ。宮の曰く、事実此の如く相反して、聖旨に背き奉るは、無状の極と云うべし。速に関白に勅して、過激者の聖旨を矯めたる者を御処分あらん事を請い奉ると奏せられしに、主上は暫く御思案ありて宣く、仮令関白に命ずるも関白は三條中納言等と同意なれば、其詮無からん。朕宜く熟慮すべしとの御事なれば、宮は拝謝して御前を退かれけり。

↑中川宮が孝明天皇に親征の勅書を見せたところ、「三条・東久世等(激派公卿)から奏請があり、神武陵への参拝は素志であるので許したが、親征は未だ許していない」と言ったというのは『七年史』のみの記述です。

高崎・秋月等はかくとも知らで、公家門前なる会藩営所張幕の内に潜伏して、武田相模守が来るを待ちしも、時刻移れど遂に来らで、しかも参内の例刻に成りにければ、公卿国事掛等参内せらるるに至れり。程もなく宮は御退出あり。高崎・秋月等は、事の齟齬せしを知れども、途上聞参らするの便あらねば、柴秀治は黒谷に馳せて、事の由を告げ、高崎・秋月・広沢は、辻路を廻りて中川宮に到り、如何なる御有様にやと問いまいらせしに、宮の曰く、主上は深く偽勅を憎ませ給うも、事の重大なるを以て、御即決なくて、猶深く熟慮すべしとの叡旨なりと、御示しあり。

ニ藩相共に落胆せざるはなし。相議して曰く、宮中にして叡慮を助け奉らんは、中川宮ならではあるなし。予て主義を同じうし給える近衛殿(=前関白近衛忠煕)御父子、二條右大臣殿(=二条斉敬)を説きて、宮と御協力を仰ぎ、叡慮を安んじ奉るに如かずとて、高崎・井上は近衛殿に、大野(英馬)・秋月は二條殿に参りけり。英馬等、右大臣に謁して、百万勧誘し参るらするも、深く其危険を御憂慮の色ありしかば、課英馬は声を励まして曰く、御先祖鎌足公入鹿を誅して皇室の既に傾かんとするを挽回せられたるは、或は今日の如き御場合にや侍りつらん。右大臣は忽然膝を打って曰く、善し、予誓て力を尽すべしと。近衛殿御父子も同意なりければ、ニ藩士は此由を中川宮に告げ奉りけり。宮は窃(ひそ)かに近衛ニ條両家の同意なるを(天皇に)言上せらるるに当り、仮令如何ならん場合に臨むも、陛下断然御同様無からんには、必ず雲霧を掃攘して、叡慮を安じ奉らんと、御誓言有りぬとぞ。一切秘密を守られて、中川宮には武田相模守、二條殿には北小路冶部権大輔・高島右衛門の外知る者なし。

↑『京都守護職始末』では、大野英馬の二条右大臣への入説は同月13日のこととして書かれています。また、奈良原の覚書では、近衛・二条を改めて説得したのは下の内勅が降りた後の同17日だとされています。


【京】同日夕、孝明天皇はひそかに中川宮のもとに使いを派遣し、朝の奏事を熟慮した結果、会津・因幡両藩に命じて、兵をもって処理させるようにとの内勅を下しました。そこから薩摩は除かれていました。

「此夕(=16日夕)、天皇書を親王に下し玉いて会津と因州と談合して威力を以て害を除かしむべしと云え玉う。親王の対え奉りて害を除くは名義に在り、之を棄て専ら威力を頼めば却て賊名を負て事なるべからず。此の如きは以て命ずべきに非ずといわる」(「鞅掌録」)

「是夕十六日主上宸翰を中川宮に賜い、因州会津の兵に令し、兵力を以て国家の害を除くべしと勅したまう」(『京都守護職始末』)

「十六日夜、主上は窃かに宮媛を御使として、宸翰を中川宮に給う。其密旨に曰く、一作夜(ママ)の奏事を熟思するに、会津中将に命じて処理せしむるの外、又他に為すべきなし、宜しく命令して処分せよとの御事なりければ、宮は更に内旨を肥後守容保に伝え給いて、臨時非常の後命を待たしめられけり」(『七年史』←因幡藩のことは省略されていて、会津藩だけに命が下ったように書かれてますね・・・^^;)

●因幡藩への朝命
会津藩と並んで因幡藩に命が下った理由として、会津藩の資料では、先に藩主池田慶徳が親征を諌争した時に天皇の逆鱗に触れたと思い、待罪書を出していたからではないか(こちら)・・・と推測されています。

<ヒロ>
資料の書き下し&UPで力つきました・・・m(..)m。

*以上、「」内は素人の管理人が原文をさらに書き下し、句読点を入れています。また、旧字の一部は当用漢字に変換しています。また()内は管理人による注釈。引用するときは必ず原文にあたってね。

参考:『玉里島津家史料』ニ、『会津藩庁記録』三、『京都守護職始末』、『七年史』一(2004.10.7)
関連:■「開国開城「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」」■守護職日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3
(2001.9.27,2004.10.7)

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