9月の「今日の幕末」 事件:開国:開城(マクロな歴史) HP内検索 HPトップへ
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| ■禁門の政変、前日 【京】 政変の計画案は「私的資料【薩摩】文久3年8月某日 近衛家に提示された政変計画案」を参照。(もっと前の段階の案である可能性もあります)。 この日、中川宮・近衛前関白らが政変決行を決意するまでの動きを資料からみると・・・ ●薩摩藩資料より *京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書(『玉里島津家史料』ニp427) 「・・・十七日四ツ(朝10時頃)過、会藩の両人参り、(会津藩士が言うには)宮(=中川宮)へ今罷り出候処、武田相模守より承り候は、今日主上より宮へ御書相下り、薩・会申し合い、早々奮発致し候様との御趣に御座候由。右に付き、飛ぶが如く走り参り候との事に候えども、 (ここでは、会津藩士は薩摩藩士に「今日」=17日に内勅が出たと説明した・・・とされていますが、会津側資料では16日夕方〜夜に内勅が下りたとされています。また、実際は会津と薩摩に命令が下りたのではなく、会津と因幡でした。もしかすると、会津藩内で、内勅から薩摩藩が除かれていることへの善後策を協議していて(その結論として、会津と薩摩に内勅が下ったと伝えることとした)、薩摩藩への連絡が遅くなり、それをごまかすために、「今日」下りたと説明したのでしょうか・・・。もちろん、会津側資料か奈良原のどちらかが日付を間違っている可能性もありますが・・・・・・。このへんは、手持ちの資料だけからでは、よくわかりません) 昨日の儀(=天皇が政変の趣意に賛同したにも関わらず内勅を下さなかったこと)も之有り、甚だ不審にて、今一度、(中川宮に)御直に相伺い候方然るべしと(会津藩士と)申し談じ、又々左太郎(=高崎正風)参殿仕り、(中川宮に)押して御目通り相願い、御直に伺い奉り候処、(中川宮が言うには)夫(それ)は間違いに候、(天皇の内勅は)会津・因州へ申し合い、事を挙げさせるべしとの御沙汰にて、宮は勿論、薩も一節立ち障らざる候様との御事に候間、(中川宮はこれでは)とても事相成り間敷と相考え、案煩居り候と御沙汰之有り候付き、左太郎も大に望を失し、色々時勢を歎き候処、 宮にも御同断にて、一人命を奉行仕り候者之無しとは、禁中誠に歎しき次第也と御沙汰遊ばされ候に付き、(高崎が)二条様(=二条斉敬右大臣)にては如何御座候哉、彼御方は万事宮様へ御同意にて、何事も宮の思召し次第、御進退遊ばさるる思召しにて候段は、兼て承知仕り居り候段申し上げ候処、(中川宮は)二条弥(いよいよ)其通りの存意にて決心出来候えば、随分事行うべし。何分申し次の人一人も之無く、禁中惣て暴論家計(ばかり)にて、夫故(それゆえ)昨日も事成らざるの第一に付き、二条差はまり呉れ候えば、いよいよ(政変計画が)相調うべきとの御沙汰故、 (高崎は)直様罷り下り、会へ差し越し、二条様へ右の段言上候様申し置き、(自分は)左大将様(=近衛忠房)へも罷り出、其段申し上げ候処、(忠房は)十六日とは遥かに違い、以ての外御決心にて、此上は御父子(=近衛忠煕・忠房父子)共に御参内、御尽力遊ばさるべしとの御沙汰にて候よし承り、有難さ筆舌に尽し難し。 弥(いよいよ)会藩へ厚く申し談じ、軍議一決致し、十八日丑の刻(午前2時頃)の上剋、御四方様(=中川宮・近衛前関白父子・二条右大臣)一時に御参内御尽力の御賦に候。尤も御参内の節御供の義外に云々之有り。宮様・二条様は会藩より御供、近衛様御父子は薩州より上下にて陽明家(=近衛家)へ罷り出居り、総勢は御参内に引続き張出の賦にて、大砲小砲備付け、二本松御屋敷(=薩摩藩邸)へ潜り居り候処・・・」 ●会津側資料より *「鞅掌録」(『会津藩庁記録』三) 「・・・(家臣の励ましによって)右府大臣(=二条斉敬右大臣)、大に奮発し自ら任ぜらる。且つ親王(=中川宮)の一たび之を発して今志を摧(くじ)かれ、然して殃(わざわい)を招ん「を恐れ、之を親王に報ぜらる。親王、又、為に気を興さる。又、近衛前殿下(=近衛忠煕前関白)・徳大寺内府(=徳大寺公純内大臣)は素謀の人なるを以て之を謀らしむ。且つ宮中の職内外の別あり。親王・前殿下には内事を為すを得、右府・左大将(近衛忠房)・内府は外事を為すを得、前殿下は時に桜木町の下邸に居られしが、此夕より陽明の本殿に移らる。左大将は年壮にして頗る志気ありとす。親王右府の志を聞き、亦決心せらる。内府には固より異心なしとす。 時に親王には天皇の未だ寐に就き玉ざるに先ち初更(=戌の刻、午後8時頃)より参すべしとせられ、右府には夜半を期すべし、天皇縦へ寐に就き玉うと雖も、天下の大事を議するに何ぞ起き玉うを憚るべきなりやと。遂に夜半を期とせる。適天皇書を下して親王を召し、謀り玉わんとす。親王此に酬(こた)え奉り、殊に子半刻(=午前1時頃)より参せるの故に、之を待ち玉わん「を請うといえ置けり。 夜に入り、親王より一書を玉り、守護職・所司代、子半刻を以て参内せしむと云え、又非常の大議有を以て人数をも率え来るべしという」 *以上、「」内は素人の管理人が原文をさらに書き下し、句読点・段落を入れています。また、旧字の一部は当用漢字に変換し、片仮名は平仮名に変えています。()内は管理人による注釈。引用するときは必ず原文にあたって下さいね。 関連:■「開国開城「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」」■守護職日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3参考:『玉里島津家史料』ニ、『会津藩庁記録』三、『京都守護職始末』、『七年史』一(2004.10.10) ■大和五條の乱(天誅組の乱) 【大和】 代官所で討たれた五人の首は、天誅組が本陣とした桜井寺に運ばれ、翌18日から3日間、路傍に晒されました。罪状の大意は以下のとおり。 <この者共、近年、違勅の幕府の逆意を受け、朝廷を幕府同一と心え、収斂(しゅうれん)をもっぱらとするにより、天誅を加える> <ヒロ> 鈴木にとっては青天の霹靂のような天誅組の出現と管轄領引渡し要求だったことでしょう。天誅組にそういう朝命(密勅という形ですら)が下っていたわけではなく、当然のことながら、幕府から代官所にそういう指示もありませんでした。鈴木が、引渡しを拒むのも当然です。天誅組は自分たちを正義と信じ、それを阻害する鈴木らを悪として、信念をもって除いたのでしょうが・・・。天誅組に梟首された代官鈴木源内は、圧政を敷いていたわけでもなく、むしろ所領の住民に評判のよい代官だったそうです。(しかも代官所と無関係の嘉助まで殺害・梟首するとは・・・自分たちを絶対正義と信じる者はどんな非道も正当化してしまう・・・恐いですよね)。 参考:『維新史』三、『徳川慶喜公伝』2(2001.9.29、2002.9.29) |