| 基本データ | 事件簿 | 同時代の評判 | 剣(血風録) | 関連:本館「幕末水戸藩」 |
| 小史:芹沢鴨(せりざわかも)は常陸水戸郷士の出。神道無念流の使い手で、水戸の尊王家・武田耕雲斎に師事したもという熱烈な天狗(水戸尊攘激派)であったという。投獄されて斬首になるところを大赦で捕縛されたとという。本名は下村継次だともいう。文久元年末に尊王攘夷の先鋒として横浜焼き討ちを計画して屯集した激派(玉造勢)に同姓同名人物がいる。松井村神官である。この下村は藩庁に捕縛されたが、文久2年末の大赦で出獄したようだ。 文久3年春、幕府が「一方の御固め」に「尽忠報国」の浪士を募集したときには同志4名とともに参加したが、浪士組本隊が東帰するときには、試衛館道場主だった近藤勇らと残留した。清河八郎と対立したともいうが、病でもあり、水戸藩激派の同志(本国寺党)が京都に残留するので残ったともいう。 残留浪士組は京都守護職会津藩のお預かりとなった。壬生に屯所を置いたため、壬生浪士組と呼ばれ、のちの新選組の母体となった。筆頭局長は芹沢で近藤の上位にあったが、朝廷を第一に考える水戸派の芹沢と、幕府直轄地の豪農出身の佐幕派・近藤では考え方がまるで違ったようである。芹沢は酒に酔ってないときはなく、どこか投げやりだったとも伝わり、乱暴なエピソードは枚挙にいとまがないが、禁門の政変においては、突き出された槍の先を鉄扇であおぐという豪胆さも語り残されている。 上洛から7ヵ月後の文久3年9月18日に、芹沢は泥酔して屯所で就寝中に、近藤派の刺客に襲われて絶命した。享年数え34歳。暗殺は芹沢の所業に業を煮やした守護職会津藩の密命ともいうが、近藤との勢力争いが原因だという見方もある。襲撃時に同志の平山も殺害され、平間は遁走。腹心の新見は既に詰め腹を斬らされており(疑問あり)、最後の一人、野口も12月には殺害された(切腹説もあり)。壬生浪士内における水戸尊攘激派は、その志を実行することなく、浪士組創設からわずか9ヵ月で壊滅した。 |
「雪霜に 色よく花の さきがけて 散りても後に
残る梅の香」
(水戸尊攘激派・下村継次の詠んだという辞世)
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衛士関連での前例が何件かあり、まいっていますのでヨロシクお願いします。