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鳥羽伏見

◆ 御香宮神社

鳥羽伏見戦争時の薩摩藩本陣である。

王政復古直前の12月7日明け方、御香宮神社の表門に「徳川氏陣営」とかかれた札が掲げられた。神社が御所へ注進すると、翌8日、薩摩藩の吉井孝助がその札をはずして部隊を置いた。16日以降、御香宮と大手筋をはさんで坂下にある伏見奉行所に会津藩兵や新選組が入ってきた。(伏見奉行所跡碑が、神社を南に下った桃陵団地にあるので、そこが奉行所だとばかり思っていたけど、なんと、薩摩陣営とは道数メートルをはさんで対峙していたらしい・・・びっくり)。 

慶応4年1月3日、旧幕軍が伏見京橋に着き、御香宮神社に陣取る薩摩藩とにらみあうことになった。やがて鳥羽方面の号砲をきっかけに鳥羽伏見の戦いが始まった。薩摩藩は地の利を活かして大砲を坂下の奉行所に打ち下ろした・・・。 薩摩軍が大砲を据えたのは、神社の西の善林寺(字は不確か)。

  
左:表門    中:本殿    右:御香水   

   
左:総理大臣佐藤栄作の揮毫した「明治維新 伏見の戦跡碑」 
  右:伏見城の残石

なお、新選組本では、土方歳三指揮のもと、新選組が薩摩本陣に銃をうちこんだことになっている(らしい、最近読んでないので忘れてます^^;)が、宮司の三木(そうぎ)さん(三木さんの曽祖父の宮司さんは勤王派で、幕府が神社に本陣を置こうとして表札を置いたのを薩摩軍に通報し、薩摩の吉井幸輔が薩摩の表札に置き換え、薩摩藩本陣になったとか)によれば、当時の遺構や当時から残る建物を調べても、小銃のあたった痕跡がまるでなく、新選組・旧幕軍が効果的な攻撃をしかけたというのはかなりあやしい・・・実は旧幕側がやられっぱなしだったのではないかとのこと。

本殿の横に奉納絵馬のたくさん飾られている場所があるが、古いものはかなり塗料がはげている。それで、そのうちの何枚かは人物(武者らしい)がガイコツのように白く浮かび上がっていて・・かなり・・・こわい(>_<)。ちなみに、ここの水(御香水)は名水100選に選ばれているとかで、大きなポリタンクをもって水汲みにきてるひとをみかける。

行き方:近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩すぐ

◆ 伏見奉行所跡

         

慶応3年末に京都を退去した会津藩と新選組が宿陣した場所。慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いのとき、高台にある御香宮神社に宿陣した薩摩藩が大砲を打ち下ろしてきて、それが火薬庫を直撃したので、奉行所は燃えてしまったそうである。石垣がわずかに残っている。聞いた話では、遺構からは割れた盃やとっくりが出てきたそうで、戦闘時はお正月モードだった模様。奉行所のあとは一時、陸軍が使っていたようである。「伏見奉行所跡」の碑と説明札は桃陵団地にある。御香宮神社から坂を下って5分くらい、寺田屋からは東へ10分くらい。実際には、薩摩藩本陣の御香宮神社とは大手筋をはさんだ真向かいにあった。

ちなみに新選組は伏見でいろいろ問題を起こしていて、薩摩藩とも衝突してにらみあったり、徳川復権をめざして運動している政治勢力にとっては害になる存在だと取られていました。将軍だった徳川慶喜にも、回想で<新選組が命令無視して勝手に進んだので戦いが始まった>なんていわれる始末。

◇慶応3年12月14日-新選組、監察を伏見に先発させる 12月16日-新選組、伏見入り − 衛士残党の間者を殺害 12月17日-新選組を疎み、町人が伏見脱出 12月21日-薩・長・芸・土に伏見巡邏の朝命/新選組、薩摩兵らと衝突/大久保利通、会津藩と新選組の軍事行動を非難する 12月24日-伏見新選組、土佐の後藤らと衝突 12月25日-この頃、尾張藩、新選組の伏見撤退を要求 12月26日-徳川慶喜に上京の朝命・新選組撤退が条件

◆ 悟真寺

鳥羽伏見の幕軍(会津藩)戦死者の墓地がある。境内中央にある「戊辰之役東軍戦死者之碑」は、榎本武揚によるもの。お寺のお坊さんによると、幕軍の戦死者は2箇所に分けて、9人と44人が埋骨されているそう。ひとりひとりのお墓なんて作ってられないし、みんなまとめて穴に埋葬したそうだ。

     

左:悟真寺正門   右:榎本武揚揮毫による「戊辰之役東軍戦死者之碑」

◆ 大黒寺

 
右:大黒寺(島津家家紋が) 左:伏見寺田屋殉難九烈士之墓案内碑

関連:◆文久2年4月23日−寺田屋事件

◆ 寺田屋

寺田屋といえば龍馬。薩長同盟を結んだばかりの龍馬を見廻組や奉行所の役人(新選組もいたって説もある)が襲撃したが、もたもたしてたので入浴中の龍馬の愛人、おりょうが裸でかけあがったことで有名・・・。龍馬はそのとき、捕縛にきた役人を撃ち殺しているので、その後は現在でいえば警官殺人犯として追われることにもなった。(龍馬暗殺犯と自供した今井信郎は、龍馬を暗殺したのは警官殺しが理由と述べている。今井ではないという推理作家も多い。龍馬・志士関連の展示があるがほとんどが複製。

寺田屋内は龍馬ものだらけだったが、実は、文久2年、薩摩藩が激派を上意討ちにした寺田屋事件の舞台である。それにはほどんど触れられておらず、上意討ちの場所はおみやげ売り場になっている。「あまりに陰惨だから?」と同行者がつぶやいた(寺田屋の庭園には慰霊碑があり、また大黒寺には墓所があります)

寺田屋はかつては宿泊可能だったが、寝ていると、んぜか桂小五郎の幽霊が出てきて枕元で愚痴をこぼすとの噂がある。なんで桂なのかは??(ついでにいうと寺田屋には伊東甲子太郎も泊まったことがあるはず^^)。

    
左:寺田屋外観   右:「おりょうの風呂」から窓の外を望む

関連:◆文久2年4月23日−寺田屋事件
行き方:京阪本線中書島駅より徒歩

◆ うまいもん屋

近鉄京都線桃山御陵前駅すぐ。御香宮神社に行くときにランチした場所。値段が手ごろでOK(京都っぽさはないけれど)。

◆ 鳥せい本店

お気に入りの祇園鳥せいさんの本店。きっと地鶏がオイシイと思う。江戸時代からの蔵元さんがやっているお店で、モチロン、おいしい日本酒、絞りたて原酒もいただけるらしい。

◆ 黄桜カッパ天国

地ビール3種が飲み比べられるらしい。バーベキューもできる。時間がなかったので、バーベキューにはしなかったけど、もってくるのが遅かった^^;。でも、稲庭うどんには、どこかお酒の香りと味がした^^。麺に麹をまぜているのか・・・お湯にお酒がはいっているのかは不明のまま。

◆ 月桂冠大倉記念館

酒造りに関する係員のおじさんの説明もおもしろく、お酒の原料となる清水を飲み、ツアーの最後には3種類のお酒を試飲させてもらえる。そのうえお土産にも「大蔵記念館」の清酒(180ミリリットル)がもらえました。これで300円とは安すぎる!とで感激!

◆ 玄屋(酒粕ラーメン)

伏見といえば酒。その酒の粕を使ったラーメンがいただける。有名店であるため、かなり混んでいた。回転は速い。こわごわ食べたけれど、みそラーメン風で、いけます!!からだもほかほかあったまるし^^。伏見のメジャーな幕末スポット寺田屋からは遠いけれど、大黒寺からはすぐそば。是非ためしてみて。
HP:玄屋ホームページ


◆淀城跡

淀城は、淀藩主稲葉家(家光の乳母春日の局の実家)の居城で、石垣が残っている。淀君のために作られた初代淀城跡は存在しない。淀藩は譜代で、藩主・稲葉正邦は老中であった。進さんに教えていただいた話によれば、鳥羽伏見の戦いのとき、稲葉は江戸におり、家老田辺権太夫が城を預かっていた。鳥羽伏見で敗走した旧幕軍(会津藩兵や新選組が含まれている)は、当然淀城に入ろうとしたが、家老は門を閉ざし、彼らを城内に入れなかった。藤堂藩と並んで淀藩の「背信」が敗北を決定づけたといわれる所以である。それでも、戦後、幕軍数人が城内に入った責任を負い、家老と弟・治之助は切腹して新政府軍に詫びている。もし最終的に旧幕軍が勝っていれば、当然、藩主の許可を得ず、独断で城門を閉じたとして、家老は切腹していたことだろう。どっちにしろ、死ぬことになったわけである。「・・・すごい」とつぶやいてしまった。

  
右:淀城の石垣  左:淀古城跡の碑

◆妙教寺

妙教寺は、敗走する旧幕軍を城内に入れず、門を閉ざした淀藩家老・田辺家(上記)の墓所。墓所はすごいやぶ蚊で、わたしはお墓にお参りしただけでその奥まで進めなかったけれど、淀藩が卒論の進さんは蚊柱を引き連れながら果敢に進んでいた・・・。このほか境内には、榎本武揚の「東軍戦死者之碑」があり、また鳥羽伏見の戦いのときに、砲弾が打ち込まれ本堂を貫いたという説明の碑がある。時間が遅かったせいか、本堂が閉まっていたので、その跡を見ることは出来なかった。第2次大戦敗戦直後、南方で、逃亡した上官に変って処刑された20歳の学徒出陣の青年の歌碑があった。しばし黙祷。

     
 左:表門  右:本堂  

「東軍戦死者之碑」

戦死した新選組の井上源三郎の首を甥が掻ききって腰にぶらさげて敗走したものの、あまりに重く邪魔になったので、ついにある寺の入り口埋めた……と子母沢寛の新選組三部作にのっている。その寺が、この妙教寺ではないかともいわれているらしい。

◆納所(のうそ)

納所は淀城に入れなかった旧幕軍と追走してきた新政府軍の激戦地だったそうで、死屍累々だったそうだ。

◆戊辰役戦場碑

「戊辰役戦場跡碑」は、近所の方にきいてもわからず、うろうろ歩き回った。結局、間道をかなり入ったところにあった。

◆淀小橋跡

淀小橋跡は納所を下ったところにある。堀のあったところは現在は埋め立てられて(あるいは暗渠となって?)道路になっているので、橋はなく、碑が建っているだけである。

  

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